<考察>蛇を踏む 生ぬるい、昏いモノを抱えて

考察

「蛇を踏む」は川上弘美さんの、中編小説で芥川賞の受賞作です。

自分は、「神様」という文庫本で初めて川上弘美さんの小説を読んだのですが、認識を揺さぶってくるのに、とても優しい独特の文体で、読み終わるころには、完全に川上さんのファンになっていました。

この小説は、読む人によって解釈は全然変わる本だと思います。

なので、この考察はあくまで私が感じた私見という感じで見て欲しいです。

物語のストーリーの重要部分に触れるので、ネタバレが嫌な人はここまでにしてね



ざっくりストーリー

元理科教師のヒワ子は、コスガさんと、その奥さんニシ子さんが営む、数珠のお店、カナカナ堂で働いています。

ある時、公園に行く途中の藪で蛇を踏んでしまったヒワ子。

そのあと部屋に戻ると、蛇が50歳くらいの女の姿をして、そこにいます。
それから蛇との奇妙な共同生活が始まります。

コスガさんやニシ子さん、願信寺の住職さんや大黒さん(住職の妻の呼び名)の蛇のエピソードも交えて、物語は進み、ヒワ子は蛇と対峙していきます。



蛇について

ここでは「蛇について」を、色々なエピソードや対比から掘り下げていきたいと思います。

女と蛇

ヒワ子が踏んだ蛇は女の形を取り、家に住み着きます。

そしてこの女は、つくね団子を煮たやつとか、いんげんを煮たもの等、家庭的な料理を作ったり、ビールを準備したりして、帰りを待っているわけです。

最初、読んだときにここで、蛇は女の象徴なのだろう、と思って読んでいたのですが、読み進めていくとそうでもないことが分かります。

まず男である願信寺の住職のもとにも蛇は現れます(後述)

そして、物語中盤の部屋の気配の描写でも、「女」と「蛇」の気配を分けて表現しており、蛇というのは、女特有のものというよりは、人間が持つ何かなのだろうということが推測できます。

ヒワ子は、蛇の世界に入ることを恐れていながらも、一方で、蛇に両腕を巻きつけられる場面では、蛇に腕を巻きつかれるよりも、人間の女の姿で抱きつかれる方が、落ちつかないとも言っています。

女の状態と、蛇の状態、どちらが良いのかは、自分の状況により変化することが見て取れます。

母と蛇

最初に現れたときや、その時以降も、蛇は

「わたしはヒワ子ちゃんのお母さんよ」

と言い続けます。
しかし、実家に電話しても母は健在です。
外見も実の母とは全く違います。



なんで蛇は自分を「ヒワ子の母だ」と言うのでしょうか?

物語の中盤で、体内に液体の蛇がはいった時に、巨大化した母と蛇が果てしなく言い争う場面が出てきます。巨大母は、慣用句やおまじないやらを投げつけて、巨大蛇をひるませます。

この場面は何をあらわしているのでしょうか?

自分は、良識としての母性蛇の中に内包されている母性の戦いがここで描かれてるのかなあと思います。

母性にもまた、いろんな側面があり、蛇にもまたいろんな側面があるのが伺えます。

ニシ子と蛇

コスガさんが口説いて、駆け落ちの末に結婚した数珠職人のニシ子さんも蛇に取りつかれています。

ヒワ子は、蛇の世界と距離感を取っていますが、ニシ子さんは自分の蛇が死に際が近くなりどっぷり蛇の世界にはまってしまいます。

餌として小鳥や蛙を嬉々として、蛇の口に運ぶ様子は非常に不気味です。

さらにヒワ子にも蛇がついていると分かると、薄ら笑いを浮かべ、あなたもそういう人だったのねと意味深な発言をします。

序盤の優しい印象からの落差が、より気味の悪さを強調させています。



小説内の描写から、ニシ子さんのケースを考えてみたのですが

数珠の制作を毎日、毎日繰り返す仕事・・・

そして夫婦生活は、好き嫌いを何度も何度も繰り返す、まだらのような状態・・・

この繰り返しや現状に彼女は、倦んでしまったのだと思います。

そして、自分の中の蛇が死にそうになったタイミングでバランスが崩れ、蛇の心地よさに引きずられてしまったのでしょう。

最終的に階段でつぶれて蛇が死んで、ニシ子さんは元に戻りますが、それが自分の意志でつぶしたのか、何かきっかけがあって正気に戻ったのかは分かりません。

何かに捕らわれたり、抜け出したりするタイミングは意志でどうにかなるときもあれば、時機が来なければ無理な時もあるのだと思います。
人生は難儀だと改めて感じます。

住職と蛇

ヒワ子が数珠を届ける、願信寺の住職さんの妻は蛇です。

住職さんは蛇に取りつかれたのではなく、蛇を女房にしたのです。

これは蛇との共存を選んだ例だと思います。

仏教を学び、自分の思想の軸や、自分自身の正邪について知っている住職は蛇を受け入れ、ともに生きていく道を選んだのでしょう。

うまく共存出来てるなら、それはそれで問題ないようにも思います。

隠すことはせず、自分の中の、蛇の側面を伴侶として生きていくことにするのも一つの人生だとも思います。



蛇とは何か

今まで見てきたことから、ここで自分の考えを述べたいと思います。



蛇とは、人間の中にある
生ぬるくて、昏いモノなのではと考えています。

それには憎しみだったり、退廃だったりが、いい感じにブレンドされていて、そしてある種の心地よさも入っています。

形のないようで、形があり、どぐろを巻いたり、環になったりもする。
負の生ぬるい感覚・・・・・

それは、人間が持っている一つの側面ともいえます。

住職はそれを受け入れ、付き合っていく方法。
ニシ子は蛇が死んで最終的には抜け出しますが、それまでは、その感覚にどっぷり浸かることを選んだのだと思います。



蛇の世界はない?

蛇との取っ組み合いの場面で、とうとう覚悟を決めてヒワ子が言うセリフが

「蛇の世界なんてないのよ」

です。

生ぬるくて、昏い退廃的な世界・・・・

それは自分が、浸りたくて、逃げ込みたくて自ら作ってるモノでしかない。

ヒワ子はここで、蛇の世界との決別宣言をしたのだと思います。

しかし人生はそう簡単にはいきません。

ヒワ子はこのセリフの直後に、蛇の世界が無いという単純なことが何故言えなかったのか分からなくなり、そのパラドックスにより、ふたたび蛇の事が単純では無くなり、思考の迷路に迷い込んでしまうのです。

そして蛇の世界は無いという言葉の真偽に、自信が持てなくなったヒワ子は、蛇とのもつれ合いになだれ込みます。

生ぬるくてあたたかいモノ、それはどこで生まれ、どこから来たのか、遺伝子に刻まれているのか、後天的なものなのか、たぶんそれは科学では分からないのだと思います。

あるとか、無いとか、物の分類のような言葉では表せない
単純なものではないモノを抱えてるのが人なのだと思いました。



生きづらさ

蛇を構成している、一つの面に生きづらさがあるのではないかと、この小説を読んで感じます。

「だいじだいじぃ~」という、劇中で何度も登場する歌があります。

これは駅前の信用金庫が祭りのときに出す山車から流れる歌で、ヒワ子の頭にしっかりとしみ込んでしまいます。

これを自分なりに解釈すると

「大規模なイベントの高揚感の中で、コマーシャルソングにより、お金が大事と脳内に刷り込まれてる人間」

の図に見えます。

現代の、大規模な都市のイベントはほとんどが大企業が絡んでいます。

そして主に何かを買う・お金を使うことがイベントの狙いです。

私たちは生まれながらに「お金」を刷り込まれています。


次に男女間の問題です。

パートナーにいくら愛があったとしても、気分は日々変わるもので、冷めることもありますし、現代社会では、刺激的なものがすごいスピードで押し寄せるからこそ、退屈や倦怠、様々なものが入り込む余地が沢山あるのだと思います。

こんな中で理想の状態を維持していくのは、なかなか難しいのではないでしょうか?


さらにもう少し大きく自分と他人との関係で考えてみます。

ヒワ子が教師時代を振り返り

「求められているような気がして、求められないことを与えてしまうことが多かった」

と述懐していますが、ここにも自分と言う存在と他人という存在の価値観のズレがあります。



人間は新しい刺激を求めるものですが、その刺激は他者から与えられるもので思い通りにはなりません。

さらに人間は社会的な生き物なわけで、その影響を排除することは不可能です。

お金を中心の軸に置く価値観で社会は回っていて、お金は引換券に過ぎず、引き換えることにより、いくらでも形を変えることが出来るので、欲望を多様化させます。

すると、価値観があっちにもこっちにも、いくらでもあり、他人を理解するのは前時代でも難しかったのに、現代社会ではさらに難しくなっていきます。

そしてどんどん自分と他人の距離が乖離していき、色々なモノが溜まっていく。

この小説の根底にはそんな生きづらさが流れている。そんな風に思います。



他者との壁と蛇の世界

ヒワ子が、人と肌を合わせる時のことを振り返るシーンにおいて

「目をつぶることが出来ず、二人で人間のかたちでないような心持ちになりたいのに、自分は人間の輪郭を保っている」

という表現が出てきます。

また自分は蛇にならないのに、肌をあわせた人たちは蛇になり、その瞬間の、ぞわりと粟立つかんじを今も覚えているとも言います。


ここから読み解くに、ヒワ子の心の中には他者への恐怖・違和感があるのです。

ヒワ子は、普通に社会生活を営み、恋人と付き合ったこともあるわけで、これはそんなに大げさなものではないと思います。

しかし、だからこそ強固で容易には溶けないものなのです。

そして、それを抱えながらも、現実と折り合いをつけたりしながら生きていかなければいけないのが、現実世界です。


一方、蛇の世界である、自分の中にある、生ぬるくて昏いモノは居心地の良い、負の世界です。

ニシ子の言葉を借りるならば、暖かくて、深く沈み、眠っていられる、非常に心地の良い世界なのです。

蛇が、蛇の世界に勧誘するときに

「何かに裏切られたことはある?」

と聞くのも、自分自身が作っている負の世界は裏切らないからです。



ヒワ子は、蛇の世界はないと、自分が作り出す負の意識を断ち切ろうとしますが、結局は、蛇に巻き返されて取っ組み合いを続けることになります。



循環する環のように

蛇にずっと、知らないふりをしていることを責められるヒワ子。

ヒワ子は、自分の中に生ぬるくて昏いモノがあるのを気づかないふりをしているわけです。

蛇の世界を否定した後も、取っ組み合いは続き、そして部屋は水の中に沈み、アパート全体が水に飲まれて、濁流に乗りながら流れ始めます。

そして青く放電するものの輝きの中で、蛇と首を締めつけあいながら部屋が流されていくところで、物語は幕を閉じます。

水は、生命の流れ・血とも読み解けます。

青く放電しているものは、意識の覚醒と対立の放電でしょうか。

そして生活の象徴としての部屋が水に流されていく。

これからも自分の中の生ぬるくて昏いモノを抱えながら、締めつけあいながら、生活は流れていくのでしょう。

そしてそれは蛇が自分のしっぽを食らうように、永遠に続いていく・・・

そんな風に私はこの小説を読みました。



蛇を一生踏まない人も、もしかしたらいるかもしれません。
また踏んでも、それを放り投げたりすることが出来る人もいるかもしれません。

しかし蛇を踏むかどうかは、結局そのときのタイミング、自分の感覚、時間など、自分では選べない要素が、相当を占めていて、いうなれば運命みたいなものなのではと思います。

この小説は、人間というモノの難儀さを、視覚的・感覚的イメージで見せてくれる本当に素晴らしい小説だと思いました。



さいごに

ということで、ここまで書いてきましたが、この考察は、この小説を読んで自分が感じたものに過ぎません。

この小説は、いろいろな解釈が出来ますし、さらに言うならば、理屈ではなく、もっと上位の川上さんにしか分からない唯一無二な感覚で書いてるのではとも思います。

なので、この考察はあくまで私見として見ていただいて、気になったら是非、本を手に取って欲しいです。

この小説の様に読書の可能性を開いてくれる一冊を、引き続き考察していけたらと思います。

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