「友情」は白樺派の代表的な文豪、武者小路実篤さんの作品です。
白樺派は、理想主義・人道主義的に、人間の生命を高らかに表現し、理性や希望中心の作品を描いた作家のグループで、大正デモクラシーの時期に活動しました。
「友情」は、恋愛と友情とで揺れ動く3人の男女を中心に描いた、元祖青春小説とも呼べる作品です。
今、読んでも恋愛面における、自意識の問題や、男女の考え方の違いなどが、作品内でものすごく丁寧に描かれているので、楽しめる作品になっています。
以下、物語の内容に触れるので、ネタバレが嫌な人はここまでにしてね
野島の問題点
この小説は、売れない物書きの野島が、友人の妹である杉子を好きになることから始まります。
それを親友である大宮は応援するものの、杉子が好きなのは大宮で、最後は友情と恋愛の間で悩むものの、大宮と杉子がくっつく・・・・・
というようなストーリーになっています。
これだけ見ると、なんてことない小説に見えますが、この3人のやり取りで、現代にも通じるであろう、恋愛における勝者と敗者を分けるポイントが、浮き出てきます。
そこが非常に面白いのです。
そして何より、主人公である野島の行動は恋愛でやってはいけないことのオンパレードになってます。
そこに注目して見ていきましょう。
相手の理想化
まず一つ目です。
野島は杉子に出会い、一目ぼれのように恋をするのですが、実は杉子の内面を全く見ていないにも関わらず、外見やちょっとした態度から、自分の女神のように感じ理想化します。
杉子の兄が、恋愛について語る場面で、「自分のうちに夢中になる性質を見ていて、相手を都合のいいように見すぎる」と、杉子に言い寄る男たちについて、言っています。
そして、野島ももれなくこれに該当します。
大宮が、「杉子の手が奇麗なことに気付いた」と言及する場面でも、野島は「彼女の全体を愛している」といい、大宮の方が彼女の細かいところまでよく観察しています。(野島は自分の観念を見ている)
そして、杉子自身にもそれは看破されています。
結局、野島が好きなのは、杉子ではなく、杉子に投影した自己の理想を愛しているのであって、結局は自分自身の観念が好きなのに過ぎないのです。
そこには杉子はいませんし、もちろん杉子の幸せなど考えてません。
自分を幸せにしてくれる、杉子の像を愛してるのです。
恋愛努力の否定
野島はライバルである早川のことを辛辣に表現します。
杉子に気に入られるように行動している彼が、女の子相手にへりくだっているように見えるのです。
しかし、恋愛において重要なのは、相手を知ることです。
そして相手を知るには、当り前ですが会話をしなければ始まりません。
早川はそれが過度かどうかはともかく、杉子に気に入られようと一生懸命努力しています。
いつもにこやかで、杉子の母にも気に入られています(戦略としては非常に正しい)
日本男児の特徴として、男が女の機嫌をとるなんてけしからん!男は黙って威厳を示すことが重要だ!
みたいな、時代遅れのポンコツな精神を抱えてる人が非常に多く見受けられます。
しかし、逆に考えてみてください。
いつもにこにこして、こちらのことを気にかけてくれる女の子と、いつも無愛想で、プライドが高く、相手を値踏みしてるような女の子・・・
どう考えても、前者のほうが良いし、モテるでしょう。
これには男女は関係ないのです。
野島は、自分のプライドばかりが高くて、そしてその誇りを、杉子が黙っていても分かってくれるはずという、愚かな甘えがあります。
しかし、人間は言葉にしなくては分からないのです。
これに気付かず、会話を軽視してる男が、特に日本男児に多いです。
杉子が、大宮への手紙で、「もし大宮と出会ってなくても、野島ではなく早川と結婚していた」というのは当たり前の話でしょう。
早川は杉子に気に入られよう、幸せな気分にしようと努力していたからです。
つまり野島は、大宮に負けたけど、その前の段階で早川にすら勝てていないのです。
独りよがりなプライドなんて、他人は知ったこっちゃないのです。
恋愛相手を説教する愚かさ
物語の中盤で、野島と早川が宗教観を戦わせ、それに巻き込まれる形で杉子と野島もお互いの宗教観を戦わせることになります。
野島は普段から宗教や、神について考えているので、自分の中で意見がまとまっています。
それ自体はいいことです。
しかし、重要なのは、それを押し付けてはいけないということで、ましてや説教なんてもってのほかです。
野島が「人間には虫けらにはない、精神や魂がある」と思うのは別に良いのです。
しかし、杉子の「人間も虫けらも同じだと思う」という考えを否定してはダメでしょう。
男というのは、それでなくても説明をしたがる生き物。
そして自分の考えが、いかに優れているか認めてもらいたいのです。
しかしそんなこと女の子には、まるで関係ないのです。
正直、この段階で杉子からしてみれば、野島はただのうざい人でしょう。
会話をするのは大事ですが、それはお互いのキャッチボールであって、相手の話をちゃんと聞くことが出来る人が、ボールを投げ返す権利を与えられるわけです。
野島は、一番やってはいけない、説教じみた宗教観を杉子に押し付けてしまったことになります。
大宮の大らかさ
さて、ここからは、野島の親友で、最後は杉子と結ばれることになる大宮について語ります。
この大宮、めちゃくちゃいいやつです。
自分の方が、物書きとして売れてるのに、野島のことを本気で認め、尊重します。
そして杉子に対して自分もほのかな気持ちを抱きながらも、野島のアプローチの手助けをしてくれます。
おそらく、大宮自身が野島のことを本当に好きだというのもあると思います。
無愛想で人付き合いも悪いが、あんなに人のいいやつはいない、という大宮の野島評は、彼の本心から出ていると思います。
しかし、これは逆にいえば、大宮が、人の良いところを発見できる力があるということです。
大宮が、周りのほとんどの人から好かれているのは、劇中から推察出来ますが、それは大宮がおおらかさをまとい、心にゆとりがあり、寛容だからだと思います。
野島と大宮の会話を見ていても、彼が話を聞きながらも、自分の意見をしっかり持っているのが分かります。
また、自分が書いたものは、最終的に野島に征服される、と言っていますが、とはいっても自分の作品に価値がないとは思っていなくて、自分には自分の価値があると自信を持っているのです。
このほがらかな精神が彼の作品にも出ていたのでしょう。
だからこそ杉子は、大宮の作品を読んで、出会う前から心を惹かれていたのです。
自尊心がやたら高く無愛想な男と、自分の作品の価値を信じている、ほがらかで寛容な男・・・
杉子が大宮を選ぶのは、自明の理な気がします。
閑話・休題 芸術について
さて、恋愛面において、二人を比べてきましたが、この物差しは、芸術においては役には立ちません。
ねじれた自尊心や、満たされない思い、極端過ぎる思い込みなど、芸術の歴史に名を残した人たちは、人間的や家庭的にはダメな人たちが多いのも事実です笑
そして野島の書く物は、大宮だけででなく、杉子もすごいことを認めており、芸術的には高く評価されるだろうということが示唆されています。
男女の考え方の差
この小説の面白いところは、男女の考え方の差が如実に表れていることです。
野島は、大宮にも好かれていますが、杉子の兄の仲田とも友達です。
無愛想だけど、なんか憎めなくていいやつ、これは男側から見た野島の評価でしょう。
しかし女の子から見ると、無愛想で1時間も傍にいたくない人になってしまいます。
男は、男自身のことを知っているので、そこにある自尊心やダメなところをある程度、共感できて、ある種、採点が甘くなる部分もあります。
女の子は、男とは性別も違うため、目の前に現れた情報で判断せざるをえません。
これは男女が逆でも同じで、同性からの評価と異性からの評価が違うのは仕組み上、仕方のないことのような気がします。
そして、野島や大宮がこの恋愛を、ものすごく仰々しく、国家やらと交えて、その後の人生の全てを左右するものと捉えてるのに対して、杉子は、そんな大げさに捉えることはない、野島だっていい人が現れて、いつか結婚する、と非常に冷静に捉えています。
男は、非常にロマン的で、一つのことにのめり込みますが、女の人の方が、視野が広く、冷静に現実を眺めているのが、ここからも伺えます。
しかし、杉子はなぜ大宮を好きになったのでしょうか?
大宮は杉子に、良い態度を取ってきたとは言えません、むしろ冷たい態度を取ってきたともいえます。
しかし、杉子は大宮が書いた物を読んでいました。そしてその中身に共感を抱きました。
この段階で、大宮の内面に好印象を持っています。
さらに、自分には冷たく見えるけど、他の人には分け隔てなく接しており、大らかな人柄が伝わってきます。
そして自分に冷たいのも、友情を立てていることだと、気付いたのだと思います。
杉子は、大宮のことを非常にしっかりと捉えている様に思います。
自分は、男よりも、女の人の方がより深いレベルで人間を見ていると思うのですが、杉子も脳や体感を含めて総体的に、大宮を見ていたのだと思います。
高い自意識、されど寂しい
ここまで見てきて、野島の最大の問題点が、高すぎる自意識にあることは明白だと思います。
これは現代の男性が抱える共通の問題点で、その自意識を女性に認めてほしいのです。
大宮の場合、ある程度、自分が書いた物が売れているので、そこが満たされているのもありますし、また「自分が書いた物は、自分自身が認めていればいいかなあ」みたいな余裕があります。
そして当たり前ですが、女の子だって聞いて欲しいし、認めて欲しいわけで、そんなときに自意識丸出しの男がいたところで、知らねーよ!となるのは道理です。
ラストシーンで野島は芸術に邁進することを決意します。
しかし、日記に、淋しさを耐えてきたのに、今後も一人で耐えなければならないのか。神よ、助け給えという言葉を書きます。(この言葉で物語は終わります)
つまり、とはいっても寂しすぎて仕方ないよおおお
という叫びですね(かわいいね笑)
まあ、野島も、どこかで自分にあった女性が見つかるだろうし、大丈夫でしょう。(どこか他人事笑)
本作から分かるのは、恋愛において、人を良く見て、話し、そしてその人が笑顔になるように行動すべしということです。
野島みたいに、何もしないくせに自分、自分では、敗北して当たり前です。
その人が好きなら、まずは自分はすごいという自意識や、プライドを捨て、その人を知り、その人の幸せを願うことが大事だと、この本を読んで改めて感じされられました。