<弟>
姉は軽快な足取りで校舎から出ていく。
帰るのだろうかと安心したのも束の間、すぐに右に曲がり体育館の方へ向かう。
そして姉はさも当然のように、その先のプールへと続く階段を上り、軽やかに壁を越えていった。
姉よ、私の一番の壁はプールの城壁ではなくあなたです。
そんなことを思いながら、僕は姉の行動を見ることが出来る場所を探すため、コンクリートの壁の周りを偵察する。
まずは侵入経路の確保だ。どこからか、入れる場所はないかしら?
すると姉の入った鉄柵の扉の対面側、つまりプールを中心にして、ちょうど反対に位置するところに鉄のドアがあった。
すぐにドアに近づき色々確認するが、このドアはおそらく非常口の役割を果たしているのだろう、ドアノブをひねってもうんともすんとも言わない。
上るにしても取っ掛かりがまるでない為、どうするか思案していると、ふとドアの下の部分に目がいく。
下の地面とドアの間にかなりの隙間が空いている。大人なら無理だろうが、僕のサイズなら通り抜けれるかもしれない。
ためしに上体を横にしてみる。
シャツが鉄錆びで擦れ、赤茶けることを我慢すれば、なんとかプールサイドに抜けることが出来そうだ。
僕は覚悟を決め、その隙間に体をねじ込んだ。
ズボンのチャックが引っかかるのを手で押さえつけ、シャツがねじれるのを力技で押し切り、向こう側へ出る。
とりあえず侵入には成功した。
ふと上に視線を向けると、そこにはコンパスで描いたような完璧な満月が横たわっている。
まさかプールの片角に寝転がりながら、こんなに奇麗な光景を見るとは思わなかった。
感動と滑稽と哀愁を全部足して、奇麗に割ろうと思っても割り切れない・・・
言うなればそんな感情がぼんやり頭をかすめる。
さていつまでもこんな姿勢で、訳の分からない感情に浸っているわけにはいかない。
上体をさっと起こし深呼吸した後、そのままドアと地続きの階段に身を潜める。
姉が入った正面の鉄柵とは違い、こちらは非常口なのでプールサイドから階段を下りたところにドアがある仕様なのだ。
階段が姉から身を隠してくれるという幸運に対し、誰にか分からないが感謝の念をとりあえず捧げる。
合わせた両手をすぐ下ろし感謝の儀を最低限で切り上げ、おそるおそる階段からプールサイドを覗く。
すると姉はリュックを下ろし何かを取り出しているところで、こちらに背中を向けている。今がチャンスだ。
ひゅんと階段を飛び出し、左側にある水道が並んでいるコンクリートの後ろに隠れる。
階段下よりも、よりくわしく姉が何をしているか確認出来る陣取りに、僕は成功した。
気持ちを落ち着け、再度プールサイドを覗くと、姉は何かをプールに入れ終わった後のようだ。ちらっとだけ袋がみえる。
ココアパウダーと書かれている可愛いロゴの文字が、夜の闇に浮き出でて3Dのようにしっかりと目に飛び込んでくる。
なるほど次の買い物までは、我が家において、ココアを飲めないことが、ここで確定したわけだ。
僕はコーヒー派なので害は無いのだが、それとは関係なく切ない気持ちに包まれる。
このような気持になるのは、果たして本日何度目だろうか。
さて、その気持ちを生み出した当の本人は、プールの飛び込み台に移動し何かをしているようだ。横向きに座っているため、ここからだと姉が何かをしている後ろ姿しか見えない。
しばらくして姉が再びプールサイドに姿を現わす。
プールの中に何かを浮かべ押し出す姉、シルエットだけみると船の模型のように見える。
段々と船がプールの中央部に近づくにつれて、その全貌が明らかになってくる。
それは先ほど、望まぬ粉末状の食事を体の隅々までたっぷり詰められた、科学の走狗たちであった。
そして彼らは、ビート版という浮くことだけが目的の、今の時代にしてはぶれない、職人気質な物質と合体させられてもいた。
その哀れなキメラは、ゆっくりと優雅に進むものの、汚泥と緑のヘドロに絡め取られ、海の真ん中で航海を止めてしまう。
ここまで気の毒な船旅もなかなか無い。
姉よ、もう十分ではなかろうか?
僕はたっぷりあなたのフルコースを味わった。
もうそろそろ奇妙なお店の暖簾をしまってくれないか。
そんな僕の願いも虚しく、姉はまた何かしらの作業のため飛び込み台へ移動する。
しかしさっきとは違い、今度はかなり時間がかかっているようだ。一心不乱にペンで何かを書いているみたいである。
姉は全く周りを気にしている様子はない。これなら何をしてもバレなさそうだ。
調子に乗り、立ち上がって仁王立ちで姉を睨みつけてみる。
うん、全くバレる気配はない。
今ここでソーラン節を踊っても姉は気付かないのではないかしら。ヤーレンソーランソーランソー
幾分姉を睨みつけ、気分が少し晴れてきたので、仁王立ちを解除し姉の観察に戻る。
立ち上がった分だけ、ほんの少し姉の手元や飛び込み台が見えるようになった。
姉は、レター帳に何かを書き込んでは切り取る作業を繰り返しており、隣の飛び込み台には球体の物体とたくさんの石が並べられている。
正直、この状態から何が起こるかを予想は出来ないし、する気も起きない。
ここまでくると僕に出来ることは、後の展開を見守ることのみだ。
とはいえ姉の作業はまだまだ続きそうなので、僕は腰を下ろし、コンクリートに身を預ける。
振り返るとここまで、かなりハードな行程であった。
ここらで体を休めておくのも悪くない、休息をしっかり取ることも大事な戦略だ。
一旦気持ちを落ち着け辺りを見回すと、夜のプールサイドという場所の不思議な魅力に改めて気付かされる。
月明りが、はがれかかったコンクリートを照らす様子は、誰も訪れていない太古の遺跡のようだし、散らばっている落ち葉の茶色も良い感じだ。
ふと眼を閉じると、静けさが心地よい、鼻をくすぐる鉄の錆びと、泥が混ざった匂いも悪くない。
そんなことを思いながらぼーっと四肢を投げ出していると、ふんっというかけ声のような音が聞こえ、我に返る。
あわてて姉の方を覗くと、姉が完成した球を抱えてプールサイドに移動するところだった。
あの様子から見るに、相当に重いことが伺える。
姉は移動を終えて、一旦球体の物体を置いて深呼吸している、手をぷらぷらさせつつ少し上気した顔が見える。
その姉の顔色がさっと引き締まる。
不思議なことにプール全体が異様な緊張感に包まれるのを感じる。
そしてその時が来る。
姉が球体の物体を両手で持ち、放り投げる。
夜の闇の中を、まるで僕の顔面に巨星が飛び込んでくるような映像が、スローモーションで流れる。
しかしその星は僕に届くことなく、視界から消え闇へ落ちていく。
すぐ後に破られる静寂、ガシャンという音。
ズシュンという水と土が混ざり合ったような重低音が続き、そして再び静寂に包まれる。
僕はなぜだか唐突に実感する。
全てが終わったのだ。おそらくこれ以上先はあるまい。
案の定、姉もすぐにリュックを背負い、プールを後にする。
鉄柵のところで、しばらく立ち止まりつつも、そのまま扉を開け出ていく。
なるほど、料理は全て出し終わったものの、後片付けはやはり僕の当番らしい。
少しふらふらした足取りの姉を見届けた後、僕はプールサイドに落ちていたココアパウダーの袋を回収し、姉が鍵を掛けずに出ていった鉄柵に鍵を掛ける。
そのあとにようやく、僕御用達の侵入路に移動し、入った時と同じ要領で隙間に体をねじこませ、外へ出た。
校門を出て、ふと空を見上げる。
夜の闇に、とっても濃いクリーム色の白みが混じってきている。
それは家で僕がいつも飲んでいる、牛乳をたっぷり入れたミルクコーヒーを思い起こさせた。
早く帰って寝よう、僕もまたふらふらした足取りで家に帰る。
家に着くまでの記憶はあまりないが、ものすごく長いようにも短いようにも感じ、気付いた時には玄関の前に立っていた。
家に入り、乱雑に投げ出された姉の靴を確認した後、そのまま熱いシャワーを浴びる。
そして、いつもよりもさらにたっぷり牛乳を入れたコーヒーを飲みほした後、僕はベッドに体を投げ出した。