「一九八四年」は、イギリスの作家ジョージ・オーウェルのSF小説で、全体主義の国によって分割統治された世界の恐怖を、想像力で描きだした近代文学の傑作です。
この小説が描く世界は、暗くて救いようがなく、人間の負の側面をいやがおうにも突きつけます。
しかしその「人間性」や「精神」、「本能」に対する圧倒的な洞察力は、他の追随を許さず、自分は創作芸術の一つの到達点ですらあるのではと思いました。
「二重思考」や「黒白」「犯罪中止」などのオリジナル概念の先鋭さは、独創的でありながら間違いなく人間性に結びついているものであり、本書を読了したころには、人間という深い闇を見つめる視点がいくつも増えることは確実です。
以下、物語の核心に触れるので、ネタバレが嫌な人はここでストップしてね。
あらすじ
世界は第三次世界大戦の核戦争を経て、オセアニア、ユーラシア、イースタシアの三つの超大国によって分割統治されています。
本作の舞台となるオセアニアでは、ビッグ・ブラザーなる人物が率いる「党」により、思想や言語などの、市民生活のあらゆる部分が監視されて統制されています。
主人公のウィンストンは、真理省の記録局に勤務していますが、内心では党やその教えであるイングソックに違和感を持っています。
あるときふとしたことからジュリアという女性に、好意を手紙で伝えられるウィンストン。
彼女も、党に対し違和感を持っていて、ウィンストンの表情から反抗心を読み取り、そこに共感と魅力を感じたのでした。
ジュリアとの逢瀬を重ねる一方で、あるとき真理省の高級官僚であるオブライエンという異色の雰囲気を持つ男と目が合うウィンストン。
その雰囲気からウィンストンは直観として、オブライエンを「人民の敵」と評されるゴールドスタインなる人物が率いる、反政府組織「ブラザー同盟」の一員なのではないかと思ったのです。
党に対する反抗心を抱えるウィンストンは、オブライエンと接触する機会を伺います。
ある時、彼の屋敷に招待されたウィンストンは、彼がブラザー同盟のメンバーである言質を取ります。
自分もブラザー同盟に入れて欲しいと訴え、受理されるウィンストン。
しかし実はオブライエンは、ウィンストンとジュリアを捕えるために接近した党側の重鎮だったのです。
そして狙い通りに、ウィンストンとジュリアを捕らえられてしまいました。
愛情省という役所の囚人を収容する施設で、オブライエンの拷問により徐々に意識がぼやけていくウィンストン。
しかしジュリアに対する愛情だけは何とか保持していました。
しかし人間が最も恐ろしいものを体験させる「一〇一号室」で、自分が最も恐れているネズミと相対したウィンストンは、耐え切れずに「ジュリアを身代わりにしてでもいいから助けてくれ!」と絶叫します。
ここにきて彼を支える最後の人間的なる部分も、無残にへし折られたのでした。
その後、釈放された彼は、全てを失った抜け殻のように暮らします。
その抜け殻に入り込んでくる、巨大な党という精神。
自分の心を失ったウィンストンの脳は「大きな思想」に寄り添う方向へと舵を切らざるを得ません。
そして最後は、オセアニアが戦争に勝ったという情報がもたらす高揚感の中で、党への心からの愛に目覚めたウィンストンは、党への憎しみすらも失います。
そして完全に世界から「党への憎しみの思い」が消え去る瞬間を待っていたかのように、彼の頭に銃口が向けられるのでした。
思考警察が象徴する世界
ウィンストンが生きるオセアニアには、自由がありません。
・戦争は平和なり
・自由は隷従なり
・無知は力なり
のスローガンの下、完全な管理社会が実現されています。
書物のほとんどが焼き払われ、また娯楽も管理され、食べる物も粗末。
そして過去の歴史は絶えず党の都合の良いように改竄され続けており、もはや真実が何かということすら、分からなくなっています。
生産高の数字なども党の都合の良い数字の羅列であり、人々はそれを信じ、昔よりはいい生活をしていると思いこまされるわけですが、それが事実なのかすら確かめる術がないのです。
そして、この社会を存続させる最も重要な存在が「思考警察」です。
オセアニアでは謀反人や異端者の大勢での処刑というのは珍しく、ほとんどの場合が失踪という形で粛清されていきます。
そして存在したそのものの事実を無かったことにされるのです。
そしてこの異端の認定は、日常生活の挙動や発言の全てを対象としており、少しでも党に対する考え方に問題があると見なされると、消されることになります。
そして思考警察はどこにいるのかも、誰なのかも分からない。
オセアニアでの暮らしは常に、張り詰めており、そこに癒しや安楽はありません。
二重思考 黒白 犯罪中止
オセアニア政府が人々を支配するのに用いる思考方法の用語は独特です。
・二分間憎悪
・二重思考
・黒白
・犯罪中止
以下ではこれらの用語について見ていきます。
二分間憎悪
決まった時間に行われる儀式で、党と人民の敵である「ゴールドスタイン」の顔をスクリーンで眺めて憎しみを発露させる儀式です。
人々は興奮状態に陥り、ゴールドスタインに対する憎悪と怒号が飛び交い、最終的にビッグ・ブラザーの敬愛の念へと収束します。
憎しみの気持ちを使う一つの洗脳みたいなもので、この敵への憎しみという気持ちがオセアニアの政体を支えています。
黒白
党の言うことを心から信じれる忠誠心を表します。
つまりは党が黒を白と言えば、それを疑わずに心から信じれる能力のことで、それを実現するために必要なのが、次の項目の「二重思考」です。
二重思考
本作の最も重要な用語であり、物語の核となる思考方法。
オセアニア政府、すなわち党には間違いは許されません。
しかし現実は日々動いており、戦争の交戦国は状況により変化しますし、農作物の出産高などは完全に予定通りの数字に落ち着くことなどは、ほとんどありません。
しかし、予定の変更や間違いは許されない。
そうなると党は絶えず過去を改竄していくことになります。
しかし、間違いが許されないということは、そもそも改竄したことも許されません。
つまり
「全体を把握して改竄をしながらも、改竄したことを忘れること」
これが党に関わるものには求められるわけです。
さらに言えば、新しい出来事が常に起こる世の中で、党の正しさを常に担保するには、過去に改竄したことの中から、都合のいい部分だけを取り出すことも時には求められます。
都合のいい部分を取り出すには全てを覚えていなくてはなりません。
つまり全てを覚えていながら、同時に忘れていなくてはいけないのです。
ここに党の教義、イングソックの核心があります。
嘘をつきながらも、その嘘を信じ、必要なら都合の良い過去を掘り起こし、同時に忘れる。
実に恐ろしい思考システムです。
宗教や、武家、貴族、民主主義などを信奉した政府は、スローガンや目的等で、人々の意識を縛ることには成功しましたが、内心で何を考えているか、また自分でも意識せずに考えている「無意識」の領域には手を出しませんでした。
しかし、この二重思考は意識と無意識の両方を支配出来るシステムであり、究極の思考コントロールとも言えます。
私は、最初に二重思考の説明を読んだとき。
「とんでもないことを考えるなあ」
と思いました。
しかしよく考えると我々は日常生活で、二重思考に近いことをやっているように思うのです。
例えば家にあるポテチを私はこの前、家族に内緒で食べました。
しかし、そのポテチは結構前から棚にあり、みんな忘れています。
よって私は、罪の意識にさいなまれるのは嫌なので、食べたあと、食べたこと自体を忘れることにしました笑
まあ、かなり小さい出来事ですがこれだって二重思考の一種です。
本書のすごいところは、独創的に見える発想でありながら、それが人間の精神に根差していることだと思います。
本書に書かれている内容で、他人事とか、自分には関係ないことというのは存在しないのではないか。
そんなことを思います。
犯罪中止
党がいかに理屈を整えようと、ほころびを完全になくすことは不可能です
そこで党に関わる人には、類推や論理で矛盾やほころびを見抜かないことが求めれられます。
異端の考えに対する不快感を持ち、何かおかしなことや真理に気付いても踏みとどまること。
劇中では自己防衛的愚鈍と表現されます。
以上の4つのワードが主な党の用語です。
おぞましい思考システムでありながらも、実によく考えられていて、人間の性質を理解している側面も否定出来ません。
「人間を支配するということは、思考を支配すること。」
権力の維持の目的の為に作られた、上記の方法がオセアニアの根本を支えています。
女性
ウィンストンと恋仲になり、物語の重要人物であるジュリア。
26歳の彼女は、虚構局に勤め、小説執筆機という機械の管理や修理をしています。
機械の仕組みは理解できるが、完成品の小説には興味がないと言い放つ彼女。
彼女は、党を憎んではいるが、全般的な批判はしません。
彼女が批判するのは、「自身の生活に触れている部分」だけです。
そして理念やイデオロギー、思想に対する考察にあまり興味はなく、いかに規則を破り、楽しみ生きながらえるかに、人生の重点を置いています。
党やイングソックの思想の、正しさや過ちを常に考えたり、自分たちが思考警察に捕まることは避けれないと、未来に思い悩むウィンストンとは対象的に、彼女はいかに今を楽しむかに重点を置いています。
理屈や理念に重点を置き、臆病ゆえに未来を予測せざるを得ない男性。
一方で、自分の存在に重きを置き、生活の範囲内のことだけを考え、今を楽しむことに重点を置く女性。
作者が、両者の対比で表現したかったのはこのようなことなのかなと思います。
個人的に上記の特徴が全て合ってるとも思いませんし、そもそも男女の性質差を語ること自体が無理な話だとも思いますが、二人の対比が物語や人間を描くうえでの奥行を深くしている側面もある、そんな風に感じました。
戦争は平和
物語の中盤で、オブライエンからもらう書物。
反乱者であるゴールドスタインが書いた、学術書に近い内容にかなりのページ数が割かれるのですが、その内容がとにかくすごいです。
独立したオセアニア政府や党の解説書でありつつ、人類の文明論にも言及されていて、その部分だけ読んでも充分、学びと楽しみを享受できると思います。
そしてその中で明かされる驚愕な事実が「戦争」についてです。
実は、三国の戦争はルーティーンのようなもので、戦争の本当の目的は
「消費財を消費しつくすこと」
だというのです。
そもそも、機械文明が正常に成長した場合、富は増え、貧困が無くなり、平等の世界が来ることは可能だと、その本は書きます
しかし、富が分配され、皆の教育水準が上がった場合、階級というものは解消されます。
すなわち階級社会は「無知と貧困」を前提にしかありえないのです。
ここにおいて党は、いかに「実質を成長させずに産業の車輪を回すか」ということを考えるのです。
そしてここにおいて戦争は性質を変えて、消費財を消費しつくし、また敵対心を煽り、人民を支配しやすくするために行う、支配集団が自国民に仕掛けるものに形を変えたのです。
恐ろしいことに、この論文において三大国の国民の生活水準はほぼ同じであることが言及されています。
つまりこの三国は、自国民を支配するために、ルーティーンとして戦争をしているだけなのです。
そして三国とも、全土を征服しようと願いながら、実はそれを無理と分かっているという二重思考のもと戦争を続けているのです。
ここに常に戦争状態でありながら、平和な状態が顕現することになり。
スローガンの一つの
「戦争は平和なり」
に繋がることになります。
党
ゴールドスタインの書では、党のことについても詳細に描かれます。
歴史における権力の入れ替わり、それは上層、中層、下層の三者の攻防だと書では言います。
不満を持つ中間層が下の層をまとめ、上の層を倒し、自らが上層に着く・・・
そして腐敗していき、不満を持つ中間層に倒され、同じことが繰りかえされる。
また中間層が上層を倒すときの理論でよく利用されたのが、「自由、正義、友愛」だったと言います。
しかし、それがスローガンとして成立したのは、実現が不可能であったからで、本当に実現するとそもそも階級支配が不可能になるので、自然と三国ともに「自由」や「平等」を避けるようになりました。
富と権力を集中させるのには寡頭政治が良い、この観点に支配者たちは立ち戻ります。
この書では、権力体制が権力を失うのは
①外敵から侵略 ②無能な統治 ③強力な中間層が育ち入れ替わること ④権力者が自信を失うこと
の4つだと言い、そして党に関して言えば③以外は問題ないと書き、そしてこの③の問題を克服するのは教育の問題だと書きます。
そしてそれに交えて、古い権力と党の決定的な違いは世襲ではないことだと述べるのです。
党は、世襲でないばかりか、優秀な人材であればプロレタリアートからの登用さえやってのけるのだと書では語られます。
権力の歴史を見る時に、確かに世襲政治は短命で、公認制や公募による権力は長続きしたという事実があります。
つまり党は、肉体や血の連続性を問題にせずに、「誰が」ではなく、「党それ自体の永続化」を目的としているというわけです。
ビッグブラザーという誰も見たことが無い、党の精神を置き、それに対する忠誠心の集団を永続させる体制。
もちろんのごとく党に関わるメンバーは上層部も含めて、相互監視に置かれることになります。
そしてこの体制を支えるのが、「二重思考」「黒白」「犯罪中止」などの、精神コントロール術です。
意識と無意識も党に向けられ、ここに中間層が育つ、教育や精神の危険も除去されることになりました。
思考のコントロールを手にした党は、矛盾や不満を克服し、権力は無限に保持されることになったのです。
オセアニアの党を作った人たちは、官僚や科学者、オルグ、教師などの、思考や行動についてに自覚や洞察力を持った人たちが多かったためなのか、綿密に練り上げられた隙が無いシステムの様に思います。
しかし、ここで疑問に思うのが、果たして「何のために」そこまでするのか?ということです。
かつての王様の様に、莫大な富を権力者にもたらさず、世襲の恩恵もない。
それなら平等の方が、権力者もいいのではないか?
それについては後の項目で書きます。
形而上学の捻じ曲げ
思考警察に捕まり、オブライエンに拷問されるウィンストン。
ここで交わされる会話の内容が非常に哲学的です。
オブライエンは、世界は人間の精神が知覚して見ているものだと言います。
言い換えれば、「人間の精神の中にのみ」世界はあるということです。
そしてそうなると、過去も人間の記憶の中にしかないことになります。
そして党が過去を改竄したとして、それを全ての人が信じた場合、世界は「人間の精神」ですから、それが世界の真実になるわけです。
これを現実の出来事に置き換えると、例えば党の誰かが空を飛んだと言い、それを聞いた人物が、飛んだと信じた場合、それは空を飛んだことになるということです。
精神や魂などの、「根源」について思考する形而上学ですが、党は形而上的考えを徹底的に考え抜き、それを捻じ曲げて自分たちの都合のいい道具にすることに成功しています。
異端を許さない
党の支配の盤石さを支えるのは思考をコントロールすることです。
そしてそれは異端の存在を許さないことでもあります。
かつて中世のキリスト教で行われた異端審問。
あれは失敗だったとオブライエンは語ります。
なぜなら異端の思想を保持した死は、死者に栄光を与え、それに続く人々を生み出したからです。
そして共産党の自白の強要による粛清に関しても、表面上は悔い改めていても、内心で異端の思想を持っている可能性は否定できません。
しかし、オセアニアの党はこれらとは違います。
すなわち異端という考えが「存在すること自体」を許さないのです。
だからこそ拷問や、洗脳に近い行為で思考を支配し、そして心の底から党への愛に目覚めた瞬間に、処刑するのです。
死ぬ時に党への憎しみが存在していることを、党は許しません。
権力
さて、ここまでオセアニアに君臨する「党」について見てきましたが、果たしてそこまでして権力を維持する目的とは何なのでしょうか?
答えは
「権力のため」です。
そう、権力の目的は権力なのです。
まず権力は集団を前提とします、最初から「個」「自由」とは相性が悪いわけです。
そして権力とは「人を支配する力」のことです。
そしてこれは平和に暮らしてるだけでは確認出来ません。
権力の確認方法とは、「相手を苦しめること」でしか確認出来ないわけです。
そして人を支配する、究極の形は、「その人の思考そのものを作り直すこと」です。
相手を苦しめてズタズタにして、思考を作り直し支配する快感。
これが権力の快感だというわけです。
そして快感は絶えず確認しなければ気持ちよくありません。
快感を確認出来る、恐怖と裏切りと拷問の世界こそが党が目指す快楽的世界なのです。
恐怖や怒り、勝利感、自己卑下の中で生きる人々ですが、その社会の中には権力という「人を苦しめたり支配することに根差した快感」だけは常に存在するのです。
人間の本能に潜む権力の快感のみを突き詰めた政治体制が、党であり、その教えがイングソックです。
恐怖
拷問され、権力の真の目的を聞かされても、「人間の精神があなた方を打ち破る」と言うウィンストン。
しかし、思考を支配下に置くことを研究している党は、そんな彼の心を簡単に打ち砕きます。
囚人の間で恐れられる「一〇一号室」
それは深層心理で、その人が本当に恐れている物を見せる為の部屋でした。
そして「恐怖」という感情を作り出すのは、自分の精神です。
これは私見ですが「一〇一号室」はおぞましい自分自身に対峙させられる空間なのだと思います。
そしてそれはウィンストンにとってはネズミであり、母や妹を自分の食欲で見捨てた、「闇に潜む自身のおぞましさの象徴」だったのだと思います。
そしてこれを突きつけられた彼は耐え切れず、身代わりとしてジュリアの名前を叫びます。
自身のおぞましさの恐怖に耐え切れず、愛する人を差し出す。
ここにおいて彼の中の、心や光は完全にへし折られ、存在そのものが消えてしまいました。
そして個の心を無くした人が生きていくには、大きい寄りかかる何かを必要とすることになります。
神の一つの形
オブライエンが権力のことを語るときに、「神が権力だ」と言います。
権力は集団を前提とし、神もまた、それを信じる集団を前提とする。
権力を確認する方法は、相手を苦しめることですが、世界中の神話も理不尽な怒りで人々を罰するエピソードが多くあります。
党は世襲を認めず、言うなれば「個」でなく「党という集団」ど同化することを求めています。
そしてもし「党という精神」に同化した場合、肉体は滅びても、党が存在する限り不滅の存在になるわけです。
神の教義を学び、神と同化することにより不滅の存在を目指す、宗教と皮肉にも、とても近いことを言っているわけです。
それどころか、党の思考コントロールを実践した場合、実際に空を飛ぶことも何でもが可能になるわけで、全知全能の神の実現性は、宗教よりも党の方が近い可能性すらあります。
党が作り出した権力は、神すら凌駕するものと言えるかもしれません。
しかし、それは目の前に広がる大地や自然を見ずに、脳内の思考だけで築き上げた、ねじ曲がった形而上学の発露で、間違いなく邪悪な神でしょう。
そこには生き生きとした太陽を駆けまわるような生物としての幸せは存在しません。
しかし、ここまでの権力体制を考えた、作者の想像力には脱帽を禁じえません。
私はこの権力体制は悲観的で退廃的過ぎると考えていますが、一方で権力という観点で見た場合の一つの到達点ではある、そんなことを思います。
希望
ウィンストンは結局、党への憎しみを持ちながら死ぬことも出来ず、最後は党への愛を抱えて死ぬわけで、この小説のラストシーンは完全敗北に見えます。
しかし、劇中におけるプロ―ルと呼ばれる労働者階級の、一人の女性の描写に希望も見えると思うのです。
沢山のおしめを洗濯する50歳くらいの女性。
体型も太っており、若い女性の花の様な美しさとは無縁の彼女。
しかしウィンストンはその女性の美しさを
「実が花より劣る謂れはない」
と表現します。
生活を続けてきた人間の、胸や腰、筋肉に宿る力、これこそが党を転覆させる力だと言うウィンストン。
附録であるオセアニアの言語であるニュースピークの解説書が、ニュースピークを過去の言語として語っていることも含めて考えるに、私は思考を突き詰めた人為的なシステムは、「太陽や自然に紐づいている悠大な流れを生きる力」には勝てないのだと思います。
現代の政治家の様に何も考えないことは問題ですが、脳内だけで思考をこねくり回すことも危険であり、思考の前に「自然や魂」という生命の本質的目的を定めること、そして自分だけで考えずに、他者の意見も聞いて、何より「他の人の顔を見ること」が重要だ、そんなことを本作を読んで私は感じました。
最後に
心を折られたウィンストンは、最後に党や、その精神の象徴であるビッグ・ブラザーという、寄りかかる大きなものにより、自分を維持しました。
思想、社会、そして国家。
恐怖や不安にさいなまれている時に、大きいものに寄りかかると非常に楽になるし、自分の矮小さを克服出来たりするものです。
しかし、何か大きいものに寄りかかることは、その部品になることをも意味します。
そしていつの間にか相手も部品になり、「敵対国家への憎しみ」という全く個人の顔が見えない、根拠が不明の感情に巻き込まれることになります。
「思想」もあまりにそれを信奉すると、人を幸せにするのが目的だったはずなのに、いつの間にか人を傷つける道具になっていたりします。
そして劇中に書かれているように、人間には人を支配したいという欲望が組み込まれているということも忘れない方がいいです。
人間の性質上、権力は絶対に腐敗するし、そして常に正しい絶対的な思想は無い。
それを踏まえた上で、あらゆる角度から物事を考えて、「大きい何か」でなく「顔が見える個人」という単位で、政治を考えていく。
そして立ち止まらずに考えることをやめない。
それが現代の人類には求められている。
本書を読んで私はそんなことを感じました。
本作は、作者の圧倒的な想像力と知識により、一つの究極の権力体制を顕現させた、他に例を見ないとんでもない小説です。
人間に対する深い洞察力に裏打ちされた本書を読むことは、人間というものを解体して考え直すことを余儀なくされ、そしてそれは人生に必ず何かを残します。
もし考察を読んで少しでも興味が湧いたら是非、本書を手に取ってほしいです。