とかく住みにくい世の中である。
いきなり何だ?と思うかもですが、最近とくとそう思います。
時間やルール、規則にがんじがらめにされ、1分1秒の単位で時間を刻みながら追われるように暮らす・・・
こんな生活に果たして、幸せはあるのでしょうか?
これはもう私たちの意識を根本から変えるしかありません。
そしてその意識の根本は見る景色、住む場所・・・
すなわち都市に規定されているのです。
つまりまず我々が取り組むべきは「都市改革」なのです。
現在の都市は例えるなら
「整理整頓された完成済みのパズルであり、一片のピースには自由はなく、そしてパズルから出ることも許されないのだ」(1890年 ジェイン・S・クルーガー)
みたいな感じです(上のセリフは私のオリジナルで、クルーガーなんて人は存在しません)
そしてそんな都市に必要なのは、ずばり「無意味さ」です。
秩序の中に無意味なものを放り込むことにより、都市の幅と奥行きは広がり、ゆったりとした余裕のある精神で人々は生活を送れるようになると思うのです。
さてそれでは具体的な都市改革案です。
一つ目は、「駅のエスカレーター」です。
まずどの駅にもエスカレーターを二つ増設、三つのエスカレーターがあるようにします。
そして、そのうちの一つは、乗っても建物の中を無意味にグルグル回るだけで、最終的に乗った場所に戻ってくる仕様にします。
エスカレーターに乗って必ず改札に着くと思ったら大間違いです。
そんなの誰も乗らないんじゃないか?と思われるかもですが、無邪気を謳歌する子供たちは何回もエスカレーターに乗るでしょうし、独自の文化を発展させている女子高生、もしくは大学生の間ではインスタ映えスポットとして話題になるので、もしかしたら整理券を配らなくてはならない事態に陥る可能性すらあるでしょう。
次に「マンホール・下水道事情」です。
一つの駅のエリアで必ず一つのマンホールを開放し、下水道に落ちないような手すりを設けて「市民憩いの下水遊歩道」として利用出来るようにします。
下水のことを下に見てた馬鹿な奴らは、今頃タカアシガニの様に泡を吹きまくってることでしょう。
これも、ちょっとした映画の様な冒険気分を味わえ、かつ人間がフタをしている生物としての臭いの本質と向き合わざるを得ませんから、お子様の情操教育にも良いのではないでしょうか?
さてお次は「商店街」です。
まあ、これは大体想像がつくと思いますが、商店街の八割は案の定、「店に入っても仏像が一体鎮座しているだけ」で他には一切何もない運びとなります。
店員も居ないので、もちろん物は売ってくれないし、誰も意味を説明してはくれません。
有体に言えば、「意味は自分で作り出せ」ということでしょうか?
そして「高級マンション」が立ち並ぶ一角には、「お菓子の家」という看板が見えます。
そのお菓子の家の外観は、鋼鉄で出来た黒光りする、縦に細長いヤクザが住むようなデザイナーズマンションで、もちろんお菓子で出来てなどいませんし、お菓子の要素は一ミリもありません。
ここを訪れた人は、深い混乱に陥ります。
そして一周だけ外観を見たあと、とくにやることもないので家路に着くことになるでしょう。
しかし、家に帰る道の途中で、黒いマンションとお菓子の家というワードの落差に不思議な趣を感じることは必然です。
そう、これは趣きという意味での「いとおかし」の家だったのです。
さてさて次は「スーパーの野菜コーナー」です。
立派な大根が重ねて並ぶ隣には、京都で修学旅行生が買う木刀が同じように重ねられています。
にんじんの隣には、短刀が、そしてごぼうの隣には「童子切安綱」といった名刀が並んでいます。
そうです、このスーパーは野菜を「食」ではなく「武」として捉えているのです。
無意味な意味の転換を実施できている、私の都市計画に沿った優良店と言えるでしょう。
さて、最後は「カフェ」です。
「お洒落なカフェに入りゆっくり読書でもしよう」
そう思いカフェに入ると、店に入る前にいきなり注文を聞かれます。
そしてメニューは
アイスコーヒー、アイスティー、アイスカフェラテの3つしかありません。
とりあえずアイスコーヒーを頼むと、コーヒー豆のエンブレムのついた扉に案内され中に入ります。
そこにはソファーもお洒落なイスもなく、巨大なアイスコーヒーで満たされた25メートルのプールがあるのです。
アイスティーのプールが肌がベトベトしないので一番当たりですが、最悪なのはカフェラテの牛乳成分の入ったプールなので、アイスコーヒープールはまあ良くもなく悪くもなくと言ったところでしょう。
ここにおいてカフェが「お茶をする」のではなく「お茶にされる」という転換期を迎えたことになります。
てなわけで、ここまで「私の理想の都市計画」を書いてきました。
しかし、私はここで一つ重要なことを報告する必要があります。
私はこの文章を、いきつけのカフェでゆったりとしたソファーに腰かけながら、コーヒーの香りを楽しみつつ、外の景色を眺めながら書いているのです。
「人間言うことと、やれることは違うんだよなあ」(1756年 メニエス・F・ジョディ)
↑(上のセリフは私の今の感情を文字にしただけのもので、メニエスなる人物は存在しません、こんな終わり方でごめんよ)