「推し、燃ゆ」は、三島由紀夫賞を最年少で受賞した小説家、宇佐見りんさんの2作目の長編小説で、第164回の芥川賞を受賞した作品です。
あらすじとしては、主人公の高校生のあかりが、自分が推しているアイドルがファンを殴ったことをきっかけに、変化していくあかりの「推し」活動と、同時進行であかり自身の生活と心情の変化を描いていく物語です。
最初は、「話題作だからとりあえず読んでみようかな」位の軽い気持ちで読み始めたのですが、読み終えた時には、生きること自体がままならない者の叫びを、言葉という武器を使い、心に刺さるように閉じ込めた表現のすさまじさに圧倒され、しばらく心が現世に帰ってきませんでした。
作者や主人公とは年齢も環境も全然違うのに、作中の表現が「普遍的な生きづらさ」をえぐり出し、心の底をいやが上にも照らす為、読んでる最中から共感のオンパレードで、「これは私の痛みについて書いてくれたんじゃないか?」と思うほどで、前かがみになり、のめり込むように読んでしまいました。
以下、物語の重要部分に触れるので、ネタバレが嫌な人はここまででストップしてください。
生きること自体がままならない
主人公のあかりにとって生活は苦行です。
人と会うたびに顔の肉を上げ下げし、伸び続ける爪は切らなくてはならない。
上手く生活しよう生活しようと思っても、「普通の人の最低限」に達する前に、意志と肉体が途切れる。
彼女はこれを生きているだけで皺寄せがくると表現しています。
私は若い時に一度、精神が疲れ切ってしまい、自宅を出れなくなったことがあります。
その時は、普段は無意識で簡単に出来ていた、お風呂に入ること、トイレに行くことすら辛くて、日常生活がベルトコンベアに乗って強制的に襲いかかってくる様な気持ちになりました。
人間は自分が当たり前に出来ることは、人も当たり前に出来ると思いがちです。
しかし、人は一人一人違い、出来ること、能力は異なります。
当たり前の生活をすること自体が、とても困難な人もいるのです。
それを分からずに、努力が足りない、自己責任等の言葉が、2000年代には特にあふれていました。
最近、少し風潮が変化してきたと思いますが、「自分が出来ることが他の人にはとても困難であること」を多くの人が想像できるようになれば、社会はもっと生きやすくなるのかなと個人的に考えています。
また劇中において、レポートの提出や、様々な雑事をメモを取っても忘れてしまったり、洗濯物と天気を意識するものの、取り込みという行動に結び付けなかったりと、あかりが生活へ上手く適応出来ない様子が詳細に描かれます。
これを見て思うのは、現代社会は神経を使う作業がとても多いということです。
便利になり、管理もしやすくなった代償として、予定、提出物、手続き等が濁流の如く、個人に押し寄せてきます。
これを機械のように難なくこなせる人もいると思いますが、いちいち立ち止まってしまう人もいるのです。
この作品は、生きることそのものがままならない人の思いを、とても繊細にリアルに表現しています。
また、あかりが病院を受診して二つほど診断名がついたものの、その病名が劇中で明かされないのは、病気の話であるという限定を避け、生きている全ての人の普遍的な痛みに寄り添いたいからなのではと個人的に感じました。
単純化とSNS
あかりの友達の成美もアイドルを推しています。
成美の表情や喋り方は、「スタンプみたい」と表現され、「自分をできるだけ単純化させている」と劇中で表現されています。
この複雑で、きっちりとした息苦しい社会の中では、繊細な思いや感性を持って細かいことに一つ一つ心を砕いていては、いずれ心が壊れてしまいますし、ある種流れ作業の様に生きることが現代社会の前提になっていると個人的に思います。
若い子たちはそのことを、感覚で自然に知っており、だからこそ社会に対応できる単純な言葉を自ら使っているのではないか、そんな風に感じるのです。
祖父の世代は戦争を知っており、父親世代は学生運動を知っています。
しかしそれ以降の世代は、平和の中で生きており、それに応じて精神のダメージへの許容範囲はどんどん狭くなっていくのは自然の摂理だと思います。
そしてこれは上の世代が精神的に強かったわけでも何でもなく、その当時の社会背景や環境によるものに過ぎません。
上の世代の人は、今の若い人を精神的に弱くなったとか断じるのではなく、繊細な感覚や思い、そしてその人自身に寄り添うことが求められていると思います。
また若い世代がSNSに夢中になるのは、SNSは自分が好きなもので繋がることが出来て、かつ対面でのわずらわしい神経戦を避けれるからというのが大きいと思います。
昔のSNSがどうかは分からないのですが、今はかなり優しい空間になっており、さらに自分と好きなものが同じ同士であれば、そこには現実社会の辛さを忘れさせてくれる仲間との絆の世界が広がっています。
現実では、きっちりとした厳しいルールの中で神経をすり減らし、SNS内で癒しを補給し、なんとか生きていく。
これは若い人に関わらず、多くの人の社会への対処方法になっているなあと個人的に感じるのです。
背骨と信仰と解釈
あかりが、推しである「上野真幸くん」に熱中するのは、幼少時にピーターパンの舞台を見たことに端を発しています。
高校生になり生きづらさが積み重なっていたあかりにとって、「夢の世界を飛ぶピーターパン」のビデオを再び見たことで、自由という失われた輝きの光と、その輝きに伴う痛みを衝撃的に思い出し、「生の感覚」をたぎらせたのだと思います。
この強烈な体験があかりを推しに熱中させます。
あかりの推し活動の態度は
「作品も人もまるごと解釈し続けること」
というものです。
そして、それを続けることにより、推しの見る世界が見たいと言っています。
「教典の解釈をし続け、いつか神の世界に至る」
これは宗教や信仰に対する私のイメージですが、あかりの推しへの態度は、とても宗教的だと思います。
自分の部屋の中心に、本尊のように推しのサイン入りの大写真を掲げて、それを元に部屋をレイアウトする様は、ある種の宗教施設のようにも映ります。
また、あかりは生活の皺寄せに苦しみながらも、「推すことだけは明確」で、自らの背骨だとも言います。
宗教も、生きづらい世の中を、信仰により生きやすくすることに主眼があると思うのですが、あかりの推し活動はまさに宗教的と言えると思うのです。
「一生懸命の呪い」と踏み外すバランス
推しがファンを殴った・・・
このことが原因となり、推しの芸能活動の状況は悪化し、そしてあかりにもその影響は現れます。
この先も世間から非難を浴びている推しを、推し続けるかどうか?
この「踏み絵」をあかりは迷うことなく踏むわけですが、ある種ここからあかりのバランスはどんどん崩れていくことになるわけです。
元々、苦しかった生活へ向けるエネルギーのほぼ全てを推しに向けるようになり、それに比例して生活の方はどんどん状況が悪化していきます。
この時のあかりの心情で気になる言葉が
「全身全霊で打ち込めることが、あたしにもある」
という言葉です。
勉強も、生活も苦手なあかりにとって唯一打ち込めるのが推し活動であり、そして事実ブログやSNSで結果が出ている側面もあります。
ここから少し自分の話になるのですが、私は学生の頃
「自分は本当に何かに打ち込んだことがあるのか?」
という漠然とした不安を抱えていました。
その不安からなのか、ある特定の期間だけ、異常に勉強を頑張ったりして(そんなのは長くは続かない)周りを驚かせたことがあります。
幼いころの教育や、また子供の頃に見る作品の多くは、一生懸命何かをやる素晴らしさを語り、それは私たちの意識の奥に植え付けられています。
その呪いが、人の精神を強迫し、バランスを崩させる一因になっているとも思うのです。
社会に出てしばらくたってから、ようやく適当にやることも重要で、何事においてもバランスが一番大事だと分かりますが、学生時代にそれを悟るのは至難の業です。
修行僧のように、全ての力を推しに費やしているあかりを、私は我が事のように感じました。
そしてそのような情熱は長く続かずに、いつかはバランスを崩す、そのことも私は知ってるなあとも感じました。
母と姉
あかりの母と姉。
物語で、あかりに辛く当たっている二人ですが、この二人も実はかなり深刻な状態です。
祖母に散々うちの子じゃないと言われ育った母。
彼女はそのため常に理想の自分でいなくてはならないという感覚に置かれ、結果として自分に余裕がなく、姉やあかりに対し辛く当たってしまいます。
彼女は、その理想を他人にも自然と押し付けています。(結果やってることは祖母と似たり寄ったりになってる)
そして押し付けたり、過剰に求める人には幸せを感じるスペースが空いてないので、幸せは与えらえれず、結果として彼女の生活は苦しいものになっています。
次は、あかりの姉についてです。
彼女は器用であるため、あかりと比較して勉強など様々な面でほめられて育ちました。
しかしだからこそ、「期待に答えなくては」という重圧や、「好かれたい思い」等に脅かされて、母の顔を人一倍伺っています。
自分が印象的なシーンが、あかりが「がんばってるよ」と母に投げるように言ったことに対し、姉が切れた場面です。
「やらなくていい、頑張らなくてもいいから、頑張ってるなんて言わないで。否定しないで」
このセリフを読み思うのは、実はあかりよりも姉の方が状況は深刻なんじゃないかということです。
あかりが姉に対して
「別々に頑張ってるでいいじゃん」
と言うセリフ、これはある種の真理です。
みんながそれぞれの能力で出来ることを頑張る、そこにどちらの方が頑張ってるという差なんて本来は無いはずです。
しかし姉は、母や他者に褒められるため、認められる為、身を粉にして頑張る自分に対して、あかりの何も頑張ってないのに鷹揚に見える態度を侮辱のように感じ、爆発してしまったのだと思うのです。
つまり、あかりの姉はとても真面目なのです。
しかし、自分がやりたいから真面目にしているわけではなくて、本質的には母や社会が恐いから真面目にしているだけなのであり、それは弱さ故の真面目さです。
あかりの感覚や感性については後述しますが、実はお姉ちゃんの方が将来行き詰ったり、危険な状況に陥る可能性があるなあと個人的に感じました。
邪魔してはいけない大事な瞬間
スキャンダルが報じられて以降の、「推し」の初めての人気投票の結果発表。
それはあかりにとって運命の瞬間だったはずです。
しかし、その瞬間に母はリモコンを取り上げ、テレビを消します。
世間的に言えば、母の言葉に生返事のまま、冷房をつけてるのに窓を開けていたあかりが悪いのでしょう。
しかしです。
世の中には、理屈ではなく絶対に邪魔してはならない大事な瞬間があるのです。
それを母は邪魔しました。
おそらく母に悪気はないでしょう。
そしてその状況を察することもなかなか難しいのも事実です。
しかし、そんなことは関係なく、道徳などでは測れない、絶対に邪魔してはいけない瞬間が人にはあるのだと私は考えています。
私があかりだったら、年月をおいて許せるようになるかはさておき、この瞬間のことは絶対忘れないでしょう。
理性や道徳ではどうにもできない、ある種の運命があり、それは愛に繋がる運命もあれば、憎しみに繋がる運命もある・・・
そんなことをこの場面で感じました。
心無い言葉たち
あかりの生活を苦しくさせている他者の「心無い言葉」。
あかりと同様に私も、これらと似た言葉たちにとても傷つき苦しめられてきました。
以下、その言葉たちを少しだけ取り上げて見ていきます。
・「ちゃんとやんなよ、お金もらってるんでしょ」
・「一生懸命やってたのは知ってるけど、あのね、うちもね、お店なの」
バイト先のお客や店長から言われるこれらの言葉たち。
このお金と言う言葉を、重く受け止めて、金科玉条のように掲げる人は今でもめちゃくちゃ多いです。
しかし、私はあえて言いたい
「たかがお金じゃないか」と
そんなことより人間の気持ちの方が大事だろうが、そんな「物の引換券」みたいなものを上座に置いて情けないと思わないのかね、この愚か者が!
・・・少し言葉が過ぎましたが、本当に世の中にはお金を盲目的に貴重だと思って、精神よりも上に置いている人が多いのです。
また「お店という形式」にやたらこだわっている、所属と肩書を愛する「なんちゃって職人気取り」もかなり多いです。(感情が乗ってるから言葉が過ぎるかもしれません)
・「どうしてできないと思う」
担任から勉強が出来ないことを言った時に返された言葉。
断定じゃない付け焼刃の上辺の優しさが、より言葉のナイフを鋭くさせています。
出来ないことを考えてみようという建設的な意見にも見えますが、あかりの気持ちに寄り添う前にそれを言ったところで、上の視点から「考えてみよう!」と言われているお説教と大して変わりはありません。
死のリアル
劇中で、あかりの祖母が亡くなります。
この時にあかりが夜の海から感じた死のイメージは、「意識の底から揺るがすような不穏な何かが襲ってくる様な印象」を植え付けます。
この表現や、その他のあかりの表現の数々を見て思うのが、あかりは、鋭くて繊細な感覚やイメージを持っているということです。
そしてそれはイコールで恐怖や痛みにもとても敏感で弱いことを指します。
だからこそ、あかりが生きづらい側面もあるのですが、この死の本質的な恐怖を感じ取る感覚が、あかりの強さや生きる力に繋がっている側面もあるのだと思います。(くわしくは後述)
全うに生きれる人も
母、姉、あかりと生きづらさの中を苦しむ3人に対置して、父はとてもバランスが取れた全うな人間として描かれます。
明快に冷静に様々なことをなんなくこなせるからこそ
「ずっと養っているわけにはいかないんだよね」
等、今のあかりに絶対言うべきでない言葉も、事実として淡々と言えてしまうのです。
要するに出来る人の想像力欠如の事例なわけですが、そんな父は裏でSNSで女性声優にメッセージを送っています。
不倫でもなく、ギャンブルでもなくある意味では健全とさえ言えますが、メッセージを送ることにより自分のバランスを取っているとしたら、その規模の矮小さにとてもやるせなくなります。
全うに生きれる人も、何かしらでバランスを取っており、そしてそれはどこかしら悲しさや虚しさを帯びています。
社会で生きるのは、とても大変です。
今がつらい
あかりが父と就活の話をしているときの会話。
このセリフたちがとても印象的です。
父「働かない人は生きていけないんだよ。野生動物と同じで、餌を取らなきゃ死ぬんだから」
あかり「なら、死ぬ」
父「ううん、ううん、今そんな話はしていない」
そしてこのほかの場面においても、あかりの心情で何度も出てくるのが
「今がつらいんだよ」
という言葉です。
個人的にこの言葉を見た時、「そのとおりだ!」と心の底から感じました。
予定を立てて、建設的にルーティーンをこなせる人も世の中には沢山いるでしょう。
しかし、細かい一つ一つの出来事や景色に一喜一憂し、感覚や神経をすり減らしている人もいるのです。
そうしてその人にとっては今という瞬間瞬間がつらいのです。
さらに腹が立つのは、あかりのセリフのあとの、父の「今そんな話はしていない」という言葉です。
お前にとっては「生活のサイクルの話」でもこっちにとっては「生き死にの話」なんじゃい!!
つまりあかりにとってはまさに同じ話をしているわけです。
今という瞬間のつらさ、そしてそれに対する世間の無理解をこんなに鋭くコンパクトにまとめているこの作品のすごさを改めて感じます。
熱狂と代償
推しの解散前の最後のライブに全てをかけるあかり。
そしてそのライブの推しのソロ曲の描写は、青く揺らいだ海の底で、神聖なあたたかい光につつまれるような、ある種、極上の神的・宗教的体験のようでさえあります。
宗教であれば、この体験の感謝と信仰の光を抱いて生活に戻っていくわけですが、あかりは自分の日常を、推しの活動の方にどんどん寄せていきました。
そして、このライブで推しは活動を終えるわけです。
つまりここであかりの生活そのものも完全に放り投げ出されることになります。
それでなくても推しがファンを殴ってからの、あかりの熱中ぶりは常軌を逸するところがありました。
ある種、自分自身を燃やし尽くすような自傷的な熱狂です。
そしてそういうタイプの熱狂ほど、後の落差と代償は大きいものです。
感覚を異常に研ぎ澄まし燃焼させた後の、トイレの狭い個室で体験する黒々とした寒さ・・・
極端な精神や脳の活動は、必ず肉体と心に仕返しに来ます。
だからこそバランス感覚が大事なのですが、あかりはそのバランスの軸が「推し」だったので、そこが無くなるとバランスどころではなく、宙ぶらりんに投げ出され、そして摩耗している肉体と精神だけが残されるわけです。
ここにおいて自分の軸を失ったあかり。
望むと望まざるにかかわらず、ここからの人生をどうするかを考えざるを得なくなります。
「推し」が殴ったわけ
あかりの「推し」こと上野真幸。
ファンを殴り、最終的にグループの解散、芸能活動の引退に追い込まれた彼ですが、果たして一体彼は、「誰を、何を」殴ったのでしょうか。
幼いころから、子役として芸能界で生きざるを得なかった「推し」。
彼も、あかりとは比べられないほどの、他者からの心ない言葉を受けてきたに違いありません。
個人的主観ですが、それらの言葉を軽く受け流せる強靭なメンタルを持っていたり、自分がやられてきた分、他者を攻撃したり、性欲に転嫁したりなど、特殊でしぶとい強かさや、深い欲望を持った人が芸能界に居続けられるんだと思います。
しかし、おそらく「推し」は違ったのでしょう。
「推し」が殴ったのが、自分の婚約者だったのか、誰なのか、そもそもなぜ殴ったのかは、結局のところは分かりません。
ただ推測するならば、人を殴った裏で、自分自身や、自分の感情、中身を見てみると欲望や虚構の骨組みでしかない芸能界などを、全てまとめて拳で殴ったのではないかと思うのです
そしてそれを行えば、一般人に戻らざるを得ないことを無意識ながら知っていて、それでもなお、それを選ばざるを得なかったのではとも思います。
全ての人が「社会という鎖」それ自身から逃れることは出来ません。
しかし推しはその鎖を殴ることにより、揺らし、自分の生活を変化させました。
そしてその殴った力は振動して、あかりに対しても深い影響と変化を与えます。
背骨を失ってでも、這ってでも
身を削る修行僧のようにまさに、骨だけになりながら推し活動をしていたあかり。
しかし、最後のライブが終わり、徐々に終焉が近付いてきます。
そしてとどめを刺したのが、推しの家で見た、推しの彼女が抱える洗濯物でした。
洗濯物が放つ圧倒的な生活感のイメージ。
推しは地面に着地したのです。
それもあかりが苦手としている生活という地面に。
この瞬間こそ、彼女の逃避としての空を駆けるピーターパンが消えた瞬間でした。
そして推し生活を終える最後の儀礼として、あかりの肉体や感覚にも、理想を終わらせる原因となった推しを殴らせるに至った力が宿ります。
推しは拳の裏に自分自身や社会を込めて殴っていたと書きましたが、あかりも自分の肉体・精神・社会に対するエネルギーを発散させます。
そしてそれは
「綿棒のケースを振り下ろすこと」でした。
このようなコンパクトな発散を選ばざるを得ないところに、今の若い世代の行き場がなく逃げ道が少なく救いが無い、圧倒的な密度の悲しみが見えます。
しかし、この行為により彼女は、中心などではなく、背骨も肉も全体が自分であり、「逃げられない自分自身」を自覚します。
また骨だけになったとして、「それを拾う他者」が居ないと成り立たないという、「他者との社会」についても見つめざるを得なくなります。
推しがファンを殴ってから遅れること1年半、あかりもここで綿棒を叩きつけ、地面に着地しました。
とはいえ、あかりの生きづらさが無くなったわけではありません。
綿棒の後は、白く黴の生えたおにぎり、空のコーラのペットボトルと、そのあとに拾うものは無限にあります。
何かを拾わされ続ける道、すなわち人生。
それは嫌になる位の長い道のりです。
しかし、あかりはそれでも這いつくばりながら生きていくことを選んだのです。
血みどろで、泥だらけで四つん這いになりながらも・・・
最後に
あかりのこれからの道は過酷で、色々な傷にさらされることは確実です。
しかし、あかりの繊細な感覚や、お姉ちゃんに言った「別々に頑張ってるでいいじゃん」という言葉から、私はあかりに対し、何か「根本の強さ」みたいなものも感じるのです。
あかりは「推し」を推すことに命をかけていましたが、ひたすら推しを解釈し続けるという行為は言うならば、他者について徹底的に想像し考えることであり、そこにこれからの人生を生きていく突破口があるようにも思うのです。
弱いことを自覚しているから、他者に寄り添える、そして恐怖に対して臆病だからこそ、死ぬことを軽々には選ばない・・・
そんなタイプの強さがあかりにはあるような気がします。(逆に姉の方が心配)
あかりが血まみれで四つん這いになって生きていく姿を想像すると、自分もまだまだ四つん這いで頑張んなくてはとも思います。
生きることがままならない人が持つ苦しみや絶望を、圧倒的なリアルさや繊細な言葉で描き出した本作は、とんでもない力を持つ傑作であり、現代社会を代表する文学として、歴史に残りづ続けるだろうと個人的に感じます。
この本を読んだ人が、少しでも他者に寄り添い、色んな人が血みどろで四つん這いにならなくても生きていける世の中に、少しでも改善されることを願いつつ、この考察を終えます。