この前、電車に乗っていた時のこと。
目的の駅まで、40分位かかるので、バッグから読みかけの川上弘美さんの小説を取り出しまして、がらがらの席に腰を下ろし、優雅に電車内読書を楽しんでいた私。
順調にページをめくり、川上ワールドを堪能していたのですが、二駅を過ぎ、三つ目の駅に停車した時。
「何年たってもよお、あの人のことは忘れられねえんだよなあ」
というパワーフレーズが耳に飛び込んできました。
本に向けてた視線を上にずらし、目の前を見ると
ニワトリをしわしわにしたような、ガリガリで、目つきをニヤニヤさせたおじいさんが、缶ビールを片手に電車に入ってきたところでした。
あっ、これは変な人だな
コンマ2秒の印象で、スッと脳内で変人と認識した私。
そして、ニワトリのトサカの代わりに、野球帽をかぶったおじいさんは、あろうことか私の向かい側のシートに腰を下ろしました。
「飛車」の駒であれば、打ち取られる完全なる直線上に私とおじいさんは対峙します。
すぐさま、本に目を落とす私ですが、もはや文字等、一文字も入ってきません。
ひたすら同じ行に視線をさまよわせるだけの、活字夢遊病者状態です。
おじいさんは入って来てからも、壊れたラジオようにずっと
「何年たってもよお、あの人のことは忘れられねえんだよなあ」
と定期的に繰り返しています。
電車内の異常を感知した他の人々は、次々と他の車両に移ったり、すぐ次の駅で下りたりしていきます。
そして二駅過ぎた位の時に、その車両はとうとう私とおじいさん二人きりになってしまいました。
正直、違う車両に移ったり、電車を降りてもう一つ後の電車に乗ることは全然可能だったんです。
しかし私はこういう事態に直面した時。
これは何かが起こる予感がするぞ
という遺伝子に組み込まれたダメなタイプの好奇心が体の自由を奪い、その場に留まることを命じ、体が動かなくなってしまうのです。
二人きりになっても
「何年たってもよお、あの人のことは忘れられねえんだよなあ」
というフレーズを、8分位あるJ-POPのサビのように繰り返すおじいさん。
そして本の文字の上を夢遊病者のようにさまよう私・・・
しかし、おじいさんが電車に乗って5駅が過ぎたころ。
車内を取り巻く空気が変わり出します。
この車両にいた全ての人が逃げて、かつ新しく来た人も、フレーズを聞くなり、すぐに避難する中、まったく目の前を動かない私という存在・・・
この状況において、おじいさんのフレーズのニュアンスが変わり始めたのです。
今までは、恋人に対する情念全開で
「何年たってもよお、あの人のことは忘れられねえんだよなあ」
と言っていたのに対し
この辺りから、縁側で孫に語りかけるようなニュアンスに変わり始めたのです。
私は、臆病であり、人の感情の機微に敏感な人間なので、この雰囲気の変化にはすぐ気づきます。
空気の変化とはすごいもので、徐々に緊張していた体の筋肉はほぐれ、しばらくすると、何と少し微笑みながら本を眺めることが出来るまでになりました。
さっきまで修羅の箱だった車内は一転して、初春のにおいに包まれます。
お互いに視線を合わすことはしないまでも、心地の良い絶妙な空気のバランスが車内を支配しました。
リラックスした私も、自然の成り行きで、おじいさんの「忘れられないあの人」を脳内で想像します。
「きっと美しいというより可愛い人だったんだろう、パステルカラーのフレアスカートタイプのワンピースに、奇麗なセミロングの髪が揺れていたのかも・・・」
そんなことを想像しつつ、緩やかに時間は過ぎていきました。
しかし、そんな空気は壊されるのが世の常。
私が、おじいさんの「忘れられないあの人」と脳内のドトールで雑談を繰り広げていると、現実の電車のドアがプシューって開く音が聞こえ、それと同時に
「はっ、明日は空けるって言ってたよね。まじでありえないんだけど」
という怒りと苛立ちに包まれた、高音のハスキーボイスが耳に入ってきました。
本に向けてた視線を上にずらし、目の前を見ると
金色に近い茶髪をクルクルさせて、ジーパンの上からはへそを出しており、黒色のショート丈のタンクトップの上に、グレーのコートを羽織っている、目つきの鋭いお姉さんが、スタバのカフェラテカップを片手に電車に入ってきたところでした。
あっ、これはギャルだな
コンマ2秒の印象で、スッと脳内でギャルを認識した私。
お姉さんの怒りは収まらず、言葉の音量とボルテージは一定の大音量を保っています。
そしてお姉さんは、何と
おじいさんの隣に座ったのです。
事態は風雲急を告げています、本に視線を落としながらも私の心臓の鼓動は、32ビートを刻んでいる状態です。
この二人が出会う時、一体何が起こるのか・・・
おじいさん「・・・・・・・」
えっ、まさかうそだろ・・・
おじいさん「・・・・・・・」
おじいさんが完全に黙ったー!!!
一瞬唖然とした後、哀しみと切なさが入り混じった感情が私を襲います。
そして私は唐突に理解したのです。
変な言葉を言うおじいさんより何よりも
ギャルの方が存在として強い
ということに・・・
その後、私は壊れた時計のように何も言葉を発しなくなったおじいさんをその場に残し、電車を降りました。
そしてそのまま、中島みゆきの「世情」を聞きながら、目的地の駅の改札をくぐったのでした。