<雑記>お刺身定食の意義を捉え直す

雑記

常々、私はお刺身定食の存在意義を掴みかねていた。

かつてこのサイトで海鮮丼の酢飯・白飯問題を書いた事があったが、正直な話、このお刺身定食の問題に比べれば、全然軽いテーマである。

さて、それでは一体、何がそんなに問題なのかと言うと

「お刺身定食は非常に損した気がする」

端的に言うとこれに尽きるのだ。

小鉢が二つ位、そしてお米とみそ汁、メインは刺身が5から7切れくらい。

このラインナップを見て、あくまで私の歪んだ主観だが、非常に中身がスカスカな感じがしてしまい、全く手が伸びない。

ここでライバルである定食主流派のメンバーを眺めてみよう。

生姜焼き定食→しょうがのガツンとした香り、大抵ボリューミー

とんかつ定食→サクサクの衣、大抵ボリューミー、キャベツマシマシ

サバ味噌定食→濃いめの味付けが良き、ご飯が進むという事はギリボリューミー

そう、他のメンバーは基本的にボリューミー感があるクラスの陽キャなのだ。

しかしお刺身定食は、非常に控え目な茶道部の様な佇まい。それでは私みたいな量より質を好み、味の違いなど大して分からない愚民は、確実に選ばない。

しかしこの前、体調を崩し、ようやく回復した病み上がりの時、私のホルモンや細胞に何かの変更が加えられたのか、驚天動地の呟きが飛び出した。

「お刺身定食が食べたいな・・・」

なんと私は自然と上記の言葉を、全くそのまま口に出していたのだ。

そして口に出してしばらくしてから、あの切り身5切れくらいの控え目なあいつを、体が本当に求めている事を知る私。

正直私の今までの人生の中で、寿司を食べたい、海鮮丼が食べたいはあっても、お刺身定食を食べたいという感情は一度も無かったのだ。

私はこの感情をチャンスだと捉えた。

もしかしたらここで自分はお刺身定食の価値を再発見出来るかもしれない。

そんなわけで私は病み上がりの体を引きずり、地元の良い感じの定食屋に行き、「ブリ刺し定食」を注文。

私は驚いた。

マジで泣けるレベルで旨い・・・

7切れの厳選された上質な脂の乗ったお刺身で、白米をかきこむ喜び。小鉢の漬物も良い感じの塩分アシストを決めてくる。

そこには資本主義的デカ盛り社会が、とうの昔に忘れてしまった、谷間にひっそりと咲く美しい花の様な喜びがあった。

そう私は量とか味付けとかの、まやかしの喜びに惑わされ、お刺身定食の本当の価値が見えていなかったのだ。

家に帰ってからも、私は長らく向き合ってこなかった「お刺身定食」に関し、様々な思いを馳せる。

思い出すのは漫画ハンターハンターの、確かハンター二次試験の光景だ。

試験官のお題は握り寿司を作る事。しかし試験会場には海はなく、いるのは淡水魚のみ。ゆえに味が美味しくない寿司ばかりが並ぶ事になるわけだが、私は常々

「淡水魚の寿司って旨そうじゃね」

そう思っていた。

その意味で言えば、寿司よりもお刺身定食はかなり未知の可能性がある。

別に形にこだわらなくていいし、酢飯じゃなくていい。ご飯と刺身は別のお皿でいいわけだから、調味料のチョイスもかなり自由だ。

もしかしたらお刺身定食は食の概念そのものを変えるポテンシャルを秘めているかもしれない。

例えば「シーラカンス刺し定食」

これは考古学と遺伝子学によるシーラカンスのクローンが必須の定食だが、食と同時に太古のコクと香りを楽しむ事が出来る、違いの分かる大人の定食だ。もちろん世界的価値がある生き物を食べている背徳感も付いてくる。

「ジョーズ定食」なんてのも、非常に良い感じだ。

多くの人間の血肉を食らってきた彼の歯ごたえのある切り身を食すことが、犠牲者の弔いにもなる一石二鳥。ある意味、食物連鎖の環を体現している、体験型の定食でもあるだろう。

そう思うと刺身というのは本当に無限の可能性があるが、「生」の切り身を食べるという事にそれなりのハードルがありそうだ。

つまり生で食べれるものは「刺身可」、焼いたりしなければ食べれないものは「刺身不可」であり、お刺身定食の更なる可能性を探るには、この「刺身可」という存在の発見が必要不可欠になる。

私が5分程、真剣に考えたところ、まだ見ぬ「刺身可」候補は以下の3つだろうか。

まず一時一世を風靡した、ふなっしーなんかは、キャッチ―だし柔らかそうだし、多分「刺身可」だろう。調味料は醤油よりピーナッツバターの方が風味に合うかもしれない。

また「滝川一益」なんかは、名前的に「刺身可」だろう。この名前と語呂で「刺身不可」は許されない。

絵画とかならモネの色合いは、白身魚の柔らかい味わいがありそうで「刺身可」。逆にシャガールの色彩はまるで夢見ごこちなカラフルな味わいの「刺身可」だろう。

さて当たり前の話だが、刺身可の話題で避けられないのは、果たして自らの存在が刺身として機能するか否かという問いかけである。

刺身にした者は刺身になる覚悟が必要だが、果たして自分は刺身にふさわしい人生を生きているだろうか。私の身はスカスカじゃないだろうか。

そう、お刺身定食とは、終わりの無い禅問答なのである。

良き刺身は良き精神に宿り、誰も切り売りすることは出来ない。そうそれは自分でさえも・・・

(おしまい)

→病み上がりだとこんな感じの内容になるんだねえ

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