もはや先月になるのだが、私は両親の古希のお祝いで箱根に行ってきた。
初日は宿も含め大満足だったのだが、二日目。晴れという予報だったのにまさかの雨である。
そんなわけで私は急遽予定を変更し、二日目は小田原にある温泉スパに行く事にした。
結果としてこの判断は正解で、非常に心身共にリラックス出来、大満足。それとともに私は数年前、ひたすら大宮のお風呂カフェに通っていた時の自分を思い出し、もう一度、温泉スパに向き合う事を決意した。
先週もまた、地元にあるいい感じの温泉スパに行ったのだが、温泉に浸かり、サウナで汗を出し、リラクゼーションルームでまんじりしていると、自身の老廃物が空気に霧散していくのが分かる。
そこは深夜料金を払えば、そのまま一晩過ごせるタイプの場所なので、時間にあくせくすることもなく充分に羽を伸ばせるのだ。
さて疲れも癒され、脳も回復してきたので、私は漫画を読む為に本棚に向かう。
つい先日、知り合いの大学生が熱を込めてゴールデンカムイの良さを熱弁していたので、それを読もうと本棚の右から探す。
無事にゴールデンカムイを見つけ、手を伸ばし、私はその手を止める。
「一巻が無い」
そうよりにもよって、一番最初がすっぽり抜けていたのだ。他の巻は全て揃っているのに・・・
しかたなく私は最近読んで面白かった、逃げ上手の若君の作者である松井さんの、過去作、暗殺教室を探す。
かつて二巻まで読んで、そのままだったので、これを機に一気に最終巻まで読破しよう。
しかし私は再びの衝撃に襲われる。
「三巻だけ無い」
ふむ。
私は、一旦心を落ち着けて、マッサージ機に向かう。
ここは今時、珍しく、10分1セットで稼働するマッサージチェアを無料で利用出来るのだ。
待っている人が居れば、一人10分だけだが、空いていれば無料でずっと使える仕様となっている。
私は自身の需要が供給されなかった資本主義的アンニュイを解消すべく、マッサージチェアのスタートボタンを押す。
うん、実に気持ちいい。
あれっ・・・
おいっ
私は思わず飛び起きる。
この椅子は今、間違いなく、私の太ももを握りつぶそうとしていた。
いつもなら程よい強さで、太ももを愛撫する様な心地良い波のような押し引きが魅力なはず、しかしこいつは今、完全に私の足を潰そうとしていた。
ここに至り、私は一つの可能性に思いを馳せる。
このスパ、私を殺ろうとしているのでは?
そう言えば先程浴びたシャワーもいつもより強かった気がする。サウナもあそこまで熱かっただろうか。
否、断じて否!
私は少なくとも、温泉スパに何かしらをされようとしている。
こうなると私は、他の善良なスパたちの為にも、絶対にこの悪のスパから無事に脱出しなくてはならない。
しかしそう簡単にスパが私を出すはずはない。このまま受付に戻っても、いわれのないドリンクやボディマッサージの料金をふっかけられ、そのままマグロ船に乗せられるのは目に見えて明らかだ。
そうなるとまずは敵の本丸を偵察し、出方を伺うのが必須になる。
私は自然体でもう一度、大浴場へと向かう。
さてまず驚いたのは、館内着だ。
大浴場の入り口前においてある、男女の館内着。その背中には丸で囲まれた「亀」の文字が。
私は絶句する。ついでに言うが、このスパとドラゴンボールがコラボしているわけではない。
つまり単純にスパ側からの私に対する警告だと捉えるべきだ。
このままだと数十キロの甲羅を背負うより辛い目にお前は遭うことになる・・・
なるほど、オリジナルの亀仙人には思い浮かばないであろう、実に陰湿なやり方だ。
とりあえず亀のマークの館内着を尻目に大浴場へ私向かう。窓ガラスの外の木々に緑のミミズクが10匹止まっている。いよいよスパが魔の空間に取り込まれ始めている。
ここで私は方向転換し、もう一度リラクゼーションルームに戻ることにする。魔の空間が一体どのように作用しているか、本丸の大浴場の前に他の場所で確認をしておきたい。
私はリラクゼーションルームに足を踏み入れた瞬間に、その地獄の様な空間に絶句する。
リクライニングチェアが木馬攻めのようにV字に曲げられ、その上に泡を吹いた人間がまたがっているのを、テレビから体が生えた生き物がにやにやしながら眺めている。
既にこの空間は手おくれだ。私は一刻も早くひとっ風呂浴びて、この場所を脱出しなければならない、そう決意を強くする。
大浴場に入ると、既に空間の場所が入れ替わり、奥にあるはずの露天風呂が先に存在しており、そこには悠々とスタバの髪の長いあいつが何体も泳ぎ回っている。
私は露天風呂の救出を諦め、奥へと進む。
ようやく大浴場に着くと、そこにはぬらりとしたナマズの托鉢僧が立っていた。
彼は大浴場の床に何やら電子ジャーを置いている。
するといきなりナマズがおもむろに両腕を上げる。大浴場のお湯が電子ジャーに渦となり注ぎ込まれる。
「魔封波だ・・・」
私はなまずがナメックの大魔王ではなく、このスパのお湯を永久に封印しようとしている事に気付く。
そうはさせるもんかと、私は風呂桶を持ち、ナマズの背後に回り込む。
それをナマズの後頭部に叩きつけようとした瞬間、ナマズがぬらりと振り返り、にやりと笑う。
私の全身に悪寒が走る中、ナマズは電子ジャーにかざしていた手を私の顔面に向ける。
その直後に、スパのお湯の渦が私の口の中に奔流のように流れ込む。
「うごごごごご」
私は白目をむきながら、龍のように流れ込む水が自身の体に流れ込むのを感じ取る。直後に私の腹、いや体が三倍、五倍に膨らみ、限界を迎える。
「ぶへら」
私の肉体はスパッと破裂し、スパの空間に肉片をスパンと叩きつけ、私の意識はそこでスッパリ途絶える。
しばらくした後、私はスパの最寄りの駅前のベンチで目覚める。
恐らく私の肉体は一度破裂し、もう一度再構成されここに復元したのだろう。
しかし、もはやかつての私はどこにも存在しない。
私は遅い青春の終わりを噛みしめ、夕焼けが暗闇へと変化する中、そのまま町の中へ消えていった。
(おしまい)

