常に大らかで他者を慈しみ、許す人間。
そう私はそれを目指している。
その気持ちをしっかりとリュックに詰め込み、玄関を出る。気分が良いと太陽もそれに応えてくれる。朝日の白い光が私を祝福するように照らす。
私はその気分のまま、お気に入りのカフェへと向かう。いつもの店員が、にこやかに私に会釈をしてくれる、まさに気分は上々だ。
注文を済まして、アイスコーヒーを受け取り、二階へ行く。するとそこで思いも知ない風景が私を待っていた。
空席無し。
むしろ満員。
私は天を仰ぎ叫ぶ。
「なぜなんだあああ。このクソがあああ」
これが私がこの数年来繰り返している、光と業のルーティーンである。そう私は寛容な人間に1ミリも近づけていないのだ。
ここで簡単な、自身のパーソナル情報を説明しておくと、私はゴリゴリのカフェ住人である。
カフェインとコーヒーの香りのする場所で過ごさないと、その日はストレスで体調が悪くなるレベルであり、もはや泊まれるならカフェに泊まりたいまである←カフェ人の常識だがネカフェはあれはカフェではない、どちらかというと遊戯室に近い何かである
そんなカフェ星人である私をカフェが拒絶する時、私の怒りは大地を揺らし天にまでとどろくことになってしまうのだ。
とはいえ、この思考法と怒りの発露は、冷静に考えれば、実に自分勝手で、他者への想像力を欠いた人間のそれである。
私が外の陽気を見て
「あら、心地の良い春の陽気になってきたわね。これはまさに絶好のカフェ日和だわ」
と考えたということは、同じことを他の人間が考えているのも道理で、その万人共通の繋がる思考こそが人類文明を発展させてきたことは言うまでもないだろう。
それでも私はたかがカフェに空席が無いだけで、マントルピースがホールになるレベルの怒りを煮えたぎらせてしまうわけで、これこそ今後豊かな人生を送る上で最大の問題になっている。
ゆえにこの「空席症候群(シンドローム)」は、どうにかして治療しなくてはならないわけだが、果たしてどうすれば、これを治すことが出来るのだろうか。
とりあえずアイスコーヒーを持ちつつ、空席を待つ間に3つくらい、治療方法を思いついたので、ここに記しておくことにする。
まず第一はネガティブコンセプト。略してネガコンだ。
これは
「どうせ俺みたいなヘドロを煮つめて、ほこりをかぶせて、数十年寝かせて出来た泥人形には、社会のどこにも席はないのさ」
という卑屈オブ卑屈メンタルを基本セットとして生きていく治療法だ。
この場合、もし空席があったら
「おお神よ。この罪深き、汚れた私になんというお慈悲をお与えになられるのか」
となるし、満席でも
「いくら待っても構わない。もしこの哀れな罪人に空席の恩寵があるならば」
と敬虔な気持ちで厳かに空席になるのを待つことが出来るだろう。
しかしこのネガコンは毎日続けていると「どうせ俺なんて生きててもしゃあねえわ」と、徐々に人生が投げやりになり、5分の1の可能性で「無敵の人」にクラスチェンジしてしまうので、あまりおすすめは出来ない。
第二の治療法はポジティブコンセプト。略してポジコンである。
これはもしカフェに行き席が空いてなかった場合。
「ほほう、なるほどな。今の俺に休息は必要ないってことか。今こそ冒険の時だぜ」
とRPGの最初の村の主人公の気持ちで、都心散歩に繰り出すというものである。
しかしこれは、10分後には、リュックの重さと足の疲れに心が折れ、人々の喧噪の中でうずくまり、その場で膝を抱えて泣き崩れることになるので、あまりおすすめは出来ない。
第三は、サバイバルコンセプト、サバコンであり、これは生存本能と工夫により、外のあらゆる場所をカフェだと思い利用しようとする方法なのだが、自分の快適さへの渇望を誤魔化すことは出来ず、外の土の上で、心折れ泣き崩れることになる。
そうここまで考えてきて、私は理解する。
このシンドロームに特効薬などないのだ。
とにかく穏やかに心を保つようにし、そして色んな選択肢と考えを持ち、我慢を覚える。
このような常識的だが難しい心のバランスを実践していき、徐々に心の広い人間になっていくしかないのだ。
そう覚悟した時、まるで何かの導きのようにお気に入りの席が空く。
やはり神は、悩み考える人間に手を差し伸べてくれるのだ。
そう思い、席に座ると、隣の奴のリュックが私のパーソナルスペースを侵略。私の脳は怒りのイオナズンで弾け飛ぶ↓パーソナルスペースの怒りは下記参照
誰か私を寛容な人間にして下さい・・・