現代の文学や映画などのテーマで一番語られるのが、「毒親問題」。
そしてこれは現代だけではなく、どの時代においても重要な問題として語られ続けています。
自分の家は、いわゆるクレヨンしんちゃんの野原家スタイルで、両親に自分と妹という家族構成です。
そして恵まれたことに両親から愛されて育ったので、いわゆる毒親問題とは全く無縁で育ってきました。
だからこそ、主観を交えずこの問題について考えることが出来るのではと思います。
最近、「親ガチャ」なる言葉が流行りましたが、これは的を得た言葉で、子供は親を選ぶことが出来ません。
これが重要なモノでないならいいのですが、この親という要素は人生にかなり重要なパーセンテージを占めているので、ここが最大の問題です。
親の収入により大学進学率が変わるなど、経済的なこともそうですが、一番の問題は愛情についてだと思います。
「自分を生んでくれた存在が、自分を全力で愛してくれるか」
これがその後の人生に影の様につきまとってきます。
虐待や暴力は大問題ですが、そこまでいかないまでも、自分に無関心だなと感じたり、兄弟のうちで自分より下の方が可愛がられてるなあ等、繊細な要素に子供は敏感に反応します。
だからこそ、様々な文学や映画で、母の愛を求めるというテーマが浮かび上がってくるのです。
これは、満たされない愛や自分の影を昇華させるのに必要なことなのだと思います。
最近よく聞くのが、共同体で子供を育てるという議論です。
産んだ親という概念にとらわれず、もしみんなで子供を育てるなら、極端に不幸な境遇の子供は減るのではと思います。
しかし一方で、自分の子供を作り育てたいという人間の本能は抑制できるものではなく、強制的に取り上げるのはまたそこで新しい歪みが出てくる気がします。
今現在、一番いいのは、そういう子供をみんなで育てる共同体に気軽に入ることが出来るように社会が環境を整えることかもと思います。
子育てで金銭の余裕がなく、子供に暴力を振るってしまいそうなときに、駆け込める場所があることが、親と子供両方を救うことになるのではと思うのです。
この問題は、人類が常に悩んできた根本の問題だからこそ、安易には解決しえません。
しかし、だからこそ常に考えていくことが、社会の流れを良くしていくのだと思います。
またどうしても現代だと家族という単位を神聖化して物事を考えてしまいがちですが、社会というネットワークが温かく人を包み込み、家族というのも一つの形態に過ぎないというところまで行くことが出来れば、精神的に生きやすい現実に近づいていく気がします。
過度な設計主義に陥らず、現実や人間の本能にも配慮しながら、一歩ずつ理想を求めていく態度を、特に政治家や行政の人は持って行動してほしいです。
これからも家族の問題は人類が生き続ける限り、直面し続けることになると思いますが、それに対して柔軟に色んな角度から考え、相対していけたらと思いました。