名探偵コナンの映画で「ベイカー街の亡霊」という作品があります。
私自身、特段コナンの映画を全部見ているわけではないのですが、高校性位の時にテレビでやっている本作の後半部を見て
「えっ、こんなに面白くて、深みや余韻がある作品があるのか」
と衝撃を受けたのでした。
その思いのままネットで本作の事を調べていると、脚本は小説家の野沢尚さんという方が書いているということで、すぐにこの方の小説を読まなくてはと思いウィキペディアを調べたところ、コナンの映画が公開して2年後に自殺していたことを知りました。
その時に受けた衝撃というのは今でも覚えていて、「ベイカー街の亡霊」という作品が持つ力と自殺の衝撃がごちゃまぜになって、複雑でぐちゃぐちゃの気持ちのまま自分の部屋の中に放り出された様な感じで佇んでいたのを覚えています。
それ以降、私はどこかで野沢さんの作品を読みたいと思いながら、ずっと読まずにここまで来ました。
理由は怖かったからです。
日本の文豪。三島も太宰も芥川もほとんどが自殺しています。しかし彼らと私たちは生きている時代も違い、また年月も流れています。ゆえに彼らの作品については、ある種の距離を持って接することが出来ます。
しかし野沢さんの自殺は2004年です。この事実と、そして恐らく野沢さんの作品群がとんでもない力を秘めているのが分かるからこそ、読むのがとても怖かったのです。
私は作品の影響をもろに受ける体質かつ、考え方も影響されてしまうので、結構慎重に作品を選んでいます。
しかし最近になり、今なら一つの作品・作家として野沢作品を読めるかもと思い、書店で「砦なき者」を購入しました。
そして今、「魔笛」と「深紅」を読み終え、本格的に野沢作品に向き合っています。
野沢作品を読んでみて思ったのは、私が感じていた予感は正しかったということです。
どの作品も重厚な闇に覆われていて、メインの事件の展開や仕掛けも面白く、かつ犯人や主人公の「精神」という複雑性を持つ器への深掘は、ちょっと他に類を見ないほど圧倒的です。
そう野沢作品は圧倒的な質量とエネルギーを持つ傑作でした。
そこには底知れない闇が広がっていますが、反面、必ず希望の側面も提示されています。
私は常々、読書には光の側面も闇の側面もあり、危険もあるが救いもあると考えていますが(だからこそ面白い)
野沢作品ほど、深い闇の陰影と、だからこそおぼろげな光がうっすら見えてくるというような、圧倒的な存在感を示す現代作家の作品は、他に無いんじゃないか、そんな風に思います。
本ブログでもどこかで「魔笛」と「深紅」に関しては考察をあげたいと思います。(「砦なき者」に関しては「破線のマリス」を読まないと考察は出来なさそう)
自分が野沢作品に心から向き合った時に、どんな景色が広がるのかは分かりませんが、そういう未知の景色を見る為に私は読書をしているんだな、そう感じる今日この頃でした。