家に帰った後、私は母と一緒に夕飯の買い物に出かけた。母いわく今日は生姜焼きとのことだ。
私は、生姜焼きが好きではないが、弟にとっては大好物であった。
この頃は、パスタとか洋食続きだったので、ここらでがっつりしたメニューで弟の希望にも沿っておこうという母の配慮であろう。
私は、食において一番大事なのはイメージだと思う。
パスタとか、アヒージョが特別に美味しいかはともかくとして、まず言葉の響きが良い。
そして言葉から溢れ出すイメージは、ヨーロッパの瑞々しい森林に囲まれた家のシックな屋外テーブルや、地中海沿岸を見渡せるテラスのような食卓の映像を脳内で再現する。
そこにおける食事は、もはや視覚すらも交えた一つのショーとも思える。
しかし、生姜焼きで浮かぶのは、寂れた町で、茶色や赤が擦り切れたような鉄錆び色の壁で覆われた定食屋のイメージだ。
むき出しにされた生活の患部みたいなイメージや絵。私は、そんなものを直視したくないのだ。
そんなことを考えて、ぼーっとしてたら、いつの間にやら買い物が終わっている。
3つあるビニール袋の軽い2つを私が持ち、歩き出す。
いつもの道を母とたわいもない話をしながらのんびりと帰る。
家についても、すぐに部屋に入りゆっくりすることは出来ない。食材を冷蔵庫に入れる手伝いをするからだ。
母がバンバン袋から食材を出していき、私は冷蔵庫を整理しつつそれを奇麗に入れていく。これが我が家の自然に出来上がった役割分担である。
そして私はこの時に自分が思うがまま、奇麗で垂直な空間を作っていくのが好きなのだ。
母はとにかく食材が入ってればいいというタイプなので、料理をする為に食品を取り出す時点で空間は美しい形を失うのではあるが、この瞬間だけは冷蔵庫内の空間は私が作った三層構造の未来都市みたいになる。
その都市は、手前のビルで奥の建物が見えなくなることはない秩序と美に包まれた町である。
町の完成状態を3回ほど確認し、美と秩序のハーモニーがつつがなく流れていることに満足する。
そして私は、リビングを後にし自分の部屋に戻る。
椅子に座り足をぴーんと伸ばす。なんだか今日は筋肉がいつもより張ってる気がする。
私が勝手に考えた血と筋肉の流れに沿ったストレッチを終えて、ベッドに寝転がったところで、がちゃんと音がする。
弟が帰ってきたようだ。
私は姿勢を正し、ベッドにゆっくり上体を預けて外を眺める。
陽は半分姿を消し、薄いオレンジ色の下には深い闇がずっしり控えている、街灯の灯りがぽつぽつと見える。
もし時間が完全に止まってしまう場合、どの時間を切り取るのが一番奇麗だろうか。
そしてその時間の最も美しい場所の景色を1枚の写真にするとするならどの場所だろう。
色々想像してみて答えは出ないものの、どの想像にも共通しているのは、海外だろうと日本だろうとその写真に人間はいないことだ。
あくまで人間はそれを見る側であり、きっとその「美」の中には誰も入れてもらえないのだ。
ただしもし自分を液体や気体みたいに変化出来るなら、その写真にうまく溶け込めるかもしれない。
そんなことを考えていたら、ドアの向こうから生姜焼きの匂いがした。
弟がはしゃいでいる。
この匂いがする体では、気体になったとてそこに溶け込めはしないな。
気を取り直して、私は芥川の前期の方の短編を開いた。