<姉>
部屋で自分のリュックに色々な物を詰めながら思う。
何事も準備が一番大事だ。備えあれば憂いなし、なければ困る、しかしあって困ることはない。
様々な脳内シュミレーションを重ねて、ようやく準備完了。
さてあとは出かけるのみだが、まずここからが最初の一手だ。とにかく不意をつかねばならない。
玄関のドアを開けると、つんとした夜風が冷たくて気持ちいい。腕と背筋を充分伸ばし体をほぐす。
体が温まったのを確認し、さっそく最初の行動に移る。
まず、玄関前の階段を中腹まで下りる。
ここでいきなり急速反転、一気に階段を駆け上る。ガチャと言う音をおきざりにする勢いでドアを開け、玄関に入る。秒速の帰宅だ。
玄関を眺める、ふむまだ特に変化はなさそうだ。
玄関で片方の靴を脱ぐ、しかしすぐ履く。そして出る。階段を下りると思いきや、また帰宅。
お出かけと帰宅の様々なバリエーションを反復横跳びの要領で試す。
ふと違和感を感じ、顔を上へすばやく向ける。少し雲が出てきた。
闇の中を流れる雲と、そこからたびたび見え隠れするオレンジの月。うん、非常に良い傾向だ。
靴を履いて、今度は本当に出かける。出だしは好調だ。この調子この調子。
さて家を出ると、道路が左右に伸びている。左に行くと駅の方、右に行くと住宅街と通学路、つまり学校の方向だ。
何かを探し求めるならば普通は人が多く、繁華街が連なる駅の方の道へ行くだろう。
しかしそれは初心者の浅知恵というもの、今回は迷わずに右、右一択だ。
住宅街は一見退屈なイメージだが、昨日まで住宅街だったとて、今日もまた住宅街だという保障はどこにも無い。
そうは言ったものの、しばらくはクリーム色の壁の、単調な住宅街が続く。
3分ほど歩いただろうか、簡単な十字路の先に行くと、少し道幅が広くなる。
ふむ、この道の広がり方、昨日までとは何かが違う気がする。
ふと上を見ると、月の大きさが家を出た時よりも、若干巨大になっているのに気付く。
ということはここに違いない。
すっと唐突に地面に寝転がる。瞬間を切り取るには、タイムラグは命取りになる。しかしいまのところ、速度は私自身の予想をも遥かに大きく上回っている。
とはいえ、あちらを立てればこちらが立たずである。
足がずきずきすると思い、視線を下にずらす、すると小石が足に当たっている。
肉に食い込んで地味に痛い。しかし我慢できない痛みではなさそうだ。
目を閉じる、開ける。空がすごい遠い、これだけでいつもと違う世界に迷い込んだみたいだ。
いかんいかん、感傷に浸ってる場合ではない。
仰向けのまま、足と手を上下左右に動かし、床を這いつくばる虫の要領で、左端のコンクリートの壁に移動する。頭が壁に当たったところで、手を乱雑に地面に這わせる。
壁のコンクリートの欠片が辺りに転がっているのを、手で確認する。
そしてそれを一つかみ手に取り、口に含む。
じゃりじゃりするがやはり嚙み切れない、しばらく口に含んだ後にぺっと横に向けて吐き出した。
うーん、想像以上の苦さだ。すぐに吐き出したにも関わらず、口内で触れた全てのところに、人工的で無機質な苦みがへばりついている。
リュックの横ポケットに差してあったペットボトルを抜き取り、そのままの姿勢でうがいし、横に水を吐き出す。
そのとき横向きの視線の先に、黒いシルエットが映る。
ネコである。
ぴたぴたと少し内股で、気取った装いで私の横を通っている。
私はすっと起き上がり、体育座りでネコをじーっと凝視する。
するとネコも首をゆっくりひねってこっちを見ている。
言いたくはないけど、私は動物に好かれるタイプではない。
それどころか、私の姿を見ると犬もネコもなぜかすぐに背を向けて逃げてしまうのだ。
それなのにこれはどうしたことだろうか、こんなにネコと視線があうのは人生ではじめてだ。
ネコって目が鉱石みたいにきれいなのね。
さてこれはかなりいい傾向である、成果は確実に出てきている。何者かはかなり恐れおののいているようだ。
日頃触ることが出来ないネコと満足するまでじゃれた後、その月夜の友人に丁寧に分かれを告げ、再び道を進む。
クリーム色した単調な住宅街が相変わらず雁首を揃える中、唐突に大きな水たまりが現れる。
雨は最近降っていないのにこれはおかしい。これは間違いない、啓示だ。
リュックを一旦、地面におろしファスナーを開け、中からさっきのとは違う、空のペットボトルを取り出す。
しゃがんでペットボトルを横にして泥水を入れる、思ったより水たまりが深かったため、かなり水が入った。見ると、水の他に細かい泥や土が入り込んでいる。
一旦フタをしめてしゃかしゃか振る。沈殿した泥や小石がまた混ざって、いい感じの焦げ茶色になった。
そこですかさずフタを取る。私はサウナに入った後みたいに、ぱっと頭から泥水をかけた。
水が目に入りそうだが目を閉じてはいけない、何も見逃さない。刻一刻と世界は流れ続けているのだ。
しばらく瞬きもせずに、大きく眼を見開きながら辺りを凝視したものの、少し視界が茶色い以外に大きな変化はない。
すぐにしゃがみ、リュックからタオルを取り出し、しっかり拭く。泥水を拭いたあとの素肌に、夜の風がしみわたる。
かなり冷えてきた。大分、やつらも怯えてきているな。
私は空気の変化を認識し、そして再び道なりに歩みを進めるのだった。