「流浪の月」は凪良ゆうさんの長編小説で、本屋大賞の大賞を受賞した作品です。
読書家界隈でかなり話題になっていて、また本屋に行けば常に平積みで店頭に並んでいた本作。
どこかで読もう読もうと思い、先日ようやく読了しました。
そして読み終わったあと、私は自分に一喝します。
「なぜ、もっと早く読まなかったんだ!愚か者!」
そう思うほど、目に見える表層や、上辺だけの言葉では表せない社会の本質的問題を、浮かび上がらせている圧倒的な作品だったのです。
そんな本作を自分なりに考察していきます。
物語の重要部分に触れるので、ネタバレが嫌な人はここでストップしてください。
ざっくりあらすじ
家内更紗は、父の死をきっかけに母に捨てられ、伯母の家に引き取られます。
伯母の家での窮屈な生活や、いとこの孝弘の性的ないやがらせに押しつぶされそうなときに、近所の公園で少女を眺めている、佐伯文という大学生に出会う更紗。
伯母の家での生活に限界をきたしていた更紗は、あるとき逃げ込むように文の家についていきます。
文は、繊細でとても優しく、そこでの生活は二人にとって自由で至高の暮らしでした。
しかし、そんな暮らしは長く続かず、動物園への外出時に、警察に捕まる文。
性的な乱暴をしたのは孝弘で、文は何もしていない!
そう擁護したい更紗ですが、孝弘の性的嫌がらせのトラウマを言葉にすることがどうしても出来ず、結局文を擁護することは出来ませんでした。
更紗は、その心残りを抱えたまま成長することになります。
そして年月は過ぎ、児童養護施設を出て、成人した更紗はファミレスで働きながら恋人の亮くんと暮らしています。
そしてあるとき「calico」というカフェでマスターをしている文と再会するのでした。
自由の原初風景
お母さんに捨てられた後、伯母の家での地獄のような暮らしに突入する更紗ですが、お父さんが生きていたころの、家族3人での暮らしは、煌めくような素晴らしい時間でした。
真面目なお父さんに、自分の感覚や感情に素直に生きる天真爛漫な母。
そこでの暮らしは、窮屈さ・型とは無縁の世界です。
ランドセルではなくカータブルを背負い、夕飯にアイスクリームを食べたり、家族で子供向けではないバイオレンス映画を見たりと、普通の常識とは少し外れながらも、とても幸せな暮らしがそこにはあります。
サーティワンのポッピングシャワー色のお母さんのマニキュアを見たり、サイダーにリキッドアイシングカラーを入れてエメラルド色に染めたりと、更紗の生活は自由な美の彩りに包まれていました。
しかしこの段階ですでに、社会の牙は彼女の生活を狙っています。
世間は、母の自由な振る舞いや、常識から外れた家内家の行動を見て、変な子の家というレッテルを更紗に貼っています。
その後、更紗を苦しめるモノの片鱗がすでにこの時から見えていたわけです。
とはいえ、この時の更紗には「父と母」という守ってくれる存在がいて、そんなことを気にせずに生活が出来ていました。
更紗が生きづらさを抱えながらも、自分の常識を外すという思考回路を持ち、相手に寄り添える人間なのは、この原初の自由な伸び伸びした体験が彼女を形作っているからなのだろうと思います。
型を押し付ける社会
一見すると優しく見える伯母と、その家での生活。
しかしそこにあったのは型や常識、道徳という窮屈な箱に閉じ込められるような地獄の生活でした。
その圧力に更紗が対抗するのは不可能であり、カータブルから、固いランドセルにカバンは変わり、更紗は常識のある子どものふりを始めます。
その後、更紗は児童養護施設、パート先、恋人とその実家、警察等、窮屈と同調圧力が支配するシステム社会と対峙していくことになりますが、始まりはこの伯母の家でした。
一般的で普通な生活をしている伯母の家。
家庭という社会のひな型。
一見すると見えないその歪みが、人の心を壊していきます。
この家の空気を作っている伯母については、後の項目で書きます。
文という人、そして二人の至高の時間
公園にいて小さい女の子を眺めている大学生、佐伯文。
彼との出会いが、更紗と、そして文自身の人生を変えることになります。
自分の肉体が第二次性徴を迎えない欠陥品なのではないかという恐怖を抱える文。
その本質は、理想を求める母の期待に答えられない自分への絶望であり、彼は成長という言葉に恐怖とコンプレックスを抱えています。
母と成長の恐怖は彼の性的感覚も歪ませて、彼は成人の女性やそれにまつわる性的なことに恐怖を感じるようになってしまいます。
唯一、子供を見る時は恐怖を感じずに、単純に可愛いと思うことが出来ました。
そして、その気持ちだけを頼りに、あらゆる恐怖から逃れるスケープゴートとして小児性愛者であるという仮面を強引に被って生きることにしたのです。
しかし性的欲望はやはり感じないわけで、この倒錯的状況が文をどんどん追い詰めていきます。
そんなときに現れたのが更紗で、そしてこの出会いが文を救います。
更紗のあまりにも自由で傍若無人な振る舞いに、四角い箱の中に追い詰められていくような生活を余儀なくされていた文は、肩の力を抜き、箱から体を出すことを更紗と一緒に体感することが出来ました。
そして更紗も、自分が苦しんでいるからこそ、寛容でとても優しい文との暮らしに、心が癒され、思う存分、自由の羽を伸ばします。
そこは社会に傷つけられた二人の自由の楽園の場所でした。
この時間を経験したことが、その後の二人の人生を規定していくことになります。
魔物たち
ここでは、最大の問題である「亮くん」を除いた、私が社会の魔物であると思う人たちについて見ていきます。
伯母
更紗を引き取ってくれた、更紗の母の姉。
彼女の表面上の優しさは全てが全て、自分や自分が所属する社会の型の為の優しさです。
新しい学校に初めて行った更紗を質問攻めにするのも、世間に迎合できたか?という結局は自分の家の世間体のためですし、更紗がお酒を注ぐのに対し、ホステスみたいなことをやめて、というのも自分の感覚に根差した発言です。
母に捨てられた更紗にとって大事なのは、まずしっかり話を聞いてあげることにより、更紗の価値観を理解することであり、更紗が子供だからといって自分の価値観を押し付けていい道理はないのです。
そして根本に愛情があるのならまだよいのですが、彼女には自由奔放な妹に対する積み重なった恨みが透けて見えます。
そしてその子である更紗にもその感情は滲み出ています。
私から言えば、この恨み自体が筋違いで、自由であった妹を恨むなら、お前も自由にすればよかったじゃんと思うのです。
結局、親の期待や社会の常識に沿うような生き方を選んだのはお前自身であり、それを妹の生き方に転嫁するのは筋違いです。
そしてさらに質が悪いのは、孝弘が更紗に性的な乱暴をしていたことが発覚したときに、更紗を児童養護施設に送ることを決め、そして更紗が孝弘の話をしないのに安堵した表情をみせたことです。
こんなものを母の息子への愛とは私は呼びたくありません。
この伯母は自己保身の権化でしょう。
自分で窮屈な社会に迎合しつつ、しかしどこか生きづらく、そしてその理由を自分で考えることもしないから、なんとなく他人のせいにする・・・
今の日本人にこういう人が何と多いことか!
私が作中の中でも上位に入る嫌いな人物が、この伯母です。
孝弘
夜中に更紗のいる部屋に忍び込み性的乱暴を働いた、クズ野郎。
あまりのクズさに、あまり語ることもないです。
更紗が性行為を怖がる原因を作った張本人で、万死に値します。
平光さん
更紗のファミレスのバイト先で、面倒見がいいと思われてるおばさん。
しかし、店長との会話を聞いていて、そこから彼氏との関係性を推測し、それを大勢のいる飲み会で口にしたりする様子は、ねっとりとした絡みつく妖怪みたいで気持ち悪いです。
彼女を動かしてるのもまた世間体であり、そこで面倒見がいいと思われてる自分です。
さらに彼女が興味があるのは、その世間を面白くしてくれるゴシップ情報なのでしょう。
だから、人を詮索して、パート仲間と噂話に花を咲かせるのです。
自分の位置を確保したうえで、平凡な生活の飽き足りない部分を人の性欲やゴシップなどを食べて埋める・・・
平光さんを見てると、恰好や外見だけはしっかりと整えながらも、ケーキやまんじゅうやらの臭いを体からぷんぷんさせたハイエナの妖怪が思い浮かびます。
亮くんに恋愛する資格はあるのか問題
さて、ここで取り上げるのは更紗の恋人、亮くんです。
かなり厳しい言葉が並びますが、仕方ありません。
なぜなら読んでめちゃくちゃイライラしたからです笑
細かいところから言えば、出張の準備を妻がしてる時の態度、みそ汁に入れる具に対するオーダーがまず腹が立ちます。
「お前、妻が準備するのとかご飯作るのを当然だと思ってんじゃねえのか馬鹿野郎」
私は読みながら、こんな罵声を彼に浴びせ続けていました。
自分が働いてるから、妻が飯を作るのが当たり前という意識をアップデート出来ない男が、現実社会でも、うじゃうじゃいます。
しかも更紗自身もファミレスで働いてるわけで、亮くんの無意識の行動は私をかなりいらだたせました。
そして亮くんの最大の問題は、実は更紗のことなんてまるで見ていないことです。
彼は自分の中のトラウマが消化出来ておらず、そのトラウマから出た感情や、他の色々な思いがごちゃごちゃになって、無意識に作り上げた型としての理想を更紗に押し付けてるだけなのです。
更紗が文の事件を語ろうとしても
「すごく怖かったんだよな」
という思考停止の自分の型を押し付けシャットダウン。
この男はまず人への思いに寄り添うための会話が出来ません。
自分のトラウマの話は語れるくせに、更紗には寄りそえないのです。
また、更紗を家族に紹介しようとする時の言葉も
「説明したら許してくれる」「わかってくれた」等
あまりに馬鹿な言葉の数々が並びます。
この言葉は、社会が事件の被害者さえも「キズモノという異端」としてみなしている表れで、社会の意識が根本的に歪んでるというのがあるので、亮だけの認識ではないのも事実です。
しかし、それをそのまま言葉に出す亮は、自分の言葉を喋れない能無しだということです。
更紗と亮が映画を一緒に見てるシーンで印象的なのが
「映画なんて、亮くんは最初から観てはいなかったのだ。」
という言葉ですが、亮くんは結局自分の事しか考えていないので、何かの作品から思いを読み取ったりすることが出来ないんです。
そんな彼の根本を形成するのが、幼い頃、母が違う男の元に走ったことです。
これには同情できるところがありますが、それでいうなら更紗は父に死なれ、母に捨てられています。
結局彼は自分自身の問題の折り合いを付けれていないのです。
だからこそ、女性には家庭としての型と貞操を求め、そこから外れると暴力を振るってしまう・・・
うーん、やっぱり最低なやつだな。
もし彼が自分としっかり向き合い、考える力があれば更紗の傷に寄り添うことが出来たと思います。
しかし、彼は悪いことに日本社会というシステムには要領よく適合する力があり、なまじうまいこと生きていけたので自分の精神と向き合うのを怠ったんでしょう。
だからこそ、彼は恋愛がいつも上手くいかないのです。
型や貞操を母のトラウマから必要以上に求めてしまい、しかし相手が求める物には気付けない・・・
言い換えると、亮は自分の事でいっぱいいっぱいなのです。
生きづらさを抱えながらも、亮の心を色々と想像していた更紗とは対照的です。
「伸び伸びと生きるための自由」を求める更紗と、「自分を安心させてくれる型」を求める亮はそもそもが反対の性質を有しているので、相性も元々良くないのです。
物語終盤で、自分主体で妻の行動を「許可する・許可しない」という意識が抜けない亮に、更紗が見捨てて欲しいと言いますが、見捨てられたのは亮のほうでしょう。
とにかく亮は、誰かと恋愛する前に自分のことを解決してほしいです。
誰かと恋愛したりするのはそれを解決出来てからにしてください。
お母さんと安西さん
夫の死に耐え切れずに、恋人と共に去り更紗を捨てた母。
幼い頃に更紗に
「重いことはそれだけで有罪だわね」
と言っていた通りの行動を実践したわけです。
しかし、捨てられた悲しみはもちろんあるものの、劇中の更紗の言葉からは、母へのネガティブな言葉はほとんど聞かれません。
おそらく更紗は、父と母との3人での自由な暮らしの根本を形成していた、母の感覚としての美を愛し、理解していたからだと思います
更紗は母の気持ちが理解出来るのです。
そして3人での暮らしは更紗にとってはかけがえのない思い出であり、大事な記憶です。
私が考えるに、更紗の抱える問題というのは毒親問題ではないのです。
更紗にとっては、不自由や、窮屈を押し付ける社会の方が問題で、他の文学作品の多くが毒親問題を描いている中、より全体的本質に意識を向けたところがこの小説のすごいところだと感じます。
その意味でこのお母さんは、子供を捨てたことはやはりどうかと思いますが、自分の人生観を更紗に示すことには成功しているともいえます。
それと似たキャラクターが安西さんです。
自分の思ったこと、人に言いにくいようなことをバシバシ言ってのける彼女は、言い換えると型ではなく自分の言葉や思いを喋っているとも表現できます。
誰も薄っぺらい優しさを口にするだけの社会で、彼女は更紗の夜逃げを手助けもしてくれましたし(しっかり代償を要求するあたりも良い)、ありのままで更紗と向き合ってくれた人物です。
更紗の母と、安西さんの共通点は、「自分の力で社会の中に自由な場所を作ることが出来ること」だと思います。
更紗の母も、安西さんも周りの白い目を気にせずに、また時にはねじふせて自由を実現する強さを持っています。
これはなかなか真似できないタイプの強さです。
そして、自由を求めながら繊細な更紗と、優しさと弱さを両輪に抱えている文は、この二人と違うやり方で社会と向き合うことになるわけです。
谷さん、交わらなかった優しさ
文の恋人で、病気で胸を片方取った苦しみを抱えている谷さん。
物語では結局、文との関係は終わってしまいますが、谷さんも人のことを想像したり、寄り添おうとする力がある人です。
そして、思いと社会を切り離してバランスを取る力があり、柔らかくもしなやかな強さを持っています。
人間同士の関係はタイミングや、その人が抱えた問題の種類の違いなどで、どうしてもうまくいかなくなることがあります。
文とは別れることになりましたが、谷さんはきっと他の誰かと幸せになる力がある、そんなことを思いました。
社会とは
この小説が対決しているのは、ずばり
不寛容で、型を押し付ける社会です。
更紗が体験する苦しみ、伯母の人生を動かす原理、文が抱える悩み、文の母が理想を求めること・・・
そのすべてに社会という不寛容さが横たわっています。
現代の社会、特に日本では、道徳の型、常識の型、感情を表す型などが無意識に決められています。
そして生きていくにはそれに従うのが楽ですから、みんながそれに従っているうちに自分の頭で物事を考えることを忘れ、社会の雰囲気を自分の考えとはき違えてしまうのです。
冷静に考えれば、人が100人いたら100人の思いがあり、個別の事件には、その人にしか分からない思いがあるのは当然のことです。
しかし、そんな当然のことすら分からずに、「被害者だからかわいそう」「加害者だから悪い」「これは洗脳されてるパターン」「ストックホルム症候群」など、何も考えずに人は人を判断します。
言葉を交わし、表情を見て、その人自身を知ろうとすることが本当のコミュニケーションですが、ほとんどの人が、型を元に眺めて判断するだけです。
そしてさらに質が悪いのは、それを押し付けて、そこから外れた人を糾弾する人が多いことです。
更紗が
「わたしをがんじがらめにする、あなたたちから自由になりたいのだ。」
と物語終盤で言いますが、この言葉の持つ意味や破壊力はすごいです。
あなたたち=社会ですが、悲しいのはこの人たち自身こそが、一番色んな事に縛られていることです。
自分が縛られていて苦しいから、自分も人を縛り、その紐はどこまでも伸び続ける・・・
それが今の社会の実像なのかもと思うのです。
さて、更紗と文は、どうやってその「社会」と対峙するのでしょうか。
夜空を駆けることが出来る人
自由の風景に憧れつつ、押しつぶされそうになりながらも、なんとか生き延びてきた更紗。
母の期待への重圧や社会の目から、コンプレックスを抱え続けてきた文。
この二人に、終盤一人の理解者が現れます。
それが安西さんの娘の梨花です。
自由奔放な母の元で、淋しい思いをしながらも、そんな自由なお母さんが好きな梨花。
更紗の子供時代の環境とどこか似ていますし、お酒の空き瓶を好きな美的感覚も更紗と似ています。
彼女が更紗に言った
「おじさん、優しいね」
という文のことを表現したセリフは、更紗に喜びを与えてくれました。
コミュニケーションにおいて子供や大人は関係なく、本心をそのまま伝えた彼女の言葉は更紗を救ったのだと思います。
また成長した梨花が、更紗と文のニュースを読み。
「文くんは、そんな人じゃないのに。」
「文くんと更紗ちゃんは、すごくすごく優しいのに。」
と涙を流した場面からも、彼女は自分で考え、感じる感性がある、摩耗していない人間だということが伝わってきます。
更紗が劇中で、「親子でもなく、友達というのもなんとなく違い、でもお互いをとても近く感じている、この3人の関係をどう呼べばいいか分からない」と言いますが、私はこの3人は、呼び名など無粋なものは必要なく、あえて「家族」「友達」みたいに名前という型をはめる必要が無い関係だと思います。
さて前項の最後に述べた更紗と文の社会との向き合い方ですが、それはこちら側から社会を捨て去るという方法でした。
終盤の更紗の
「わたしたちは、もうそこにはいないので。」
という言葉に私は衝撃を受けました。
これほど、心を打つ捨て台詞を私は知りません。
この段階で彼女は、型通りに「善意」という、まがい物を押し付け、自分で考えることもしない、不寛容な、社会という地面を完全に見捨てたのです。
私は、社会に「更紗と文」という夜空を自由に駆ける月が居られなくなったのではなく、夜空を駆けるために社会の方が完全に捨てられたのだと感じました。
そして、思いに寄り添える梨花だけは月と一緒に空を駆けることが出来る数少ない人なのだと思います。
しかし、そういう人が増えていかない限り、社会というみずぼらしい地面は、自分が捨てられたことにさえ気付かないまま地面を這いつくばっている事でしょう。
最後に
現代社会は生きづらい・・・
上辺だけの優しさはまるで、棚から取り出した商品みたいで、そして道徳も感情も、全てその棚から出し入れしているだけで、そこに思いや感覚は存在しないのでは?
私は、この小説を読み、また自分の不器用な人生を振り返り、こんなことを感じました。
効率化により、便利な暮らしを享受してるからこそ、少数者や、繊細な人の思いは、その効率化の機械からは振り落とされていく・・・
そのような社会の問題点をこの小説は、優しい物語と、人物を丁寧に描くことで誰の心にもすうっと入っていくように仕立て上げています。
その後の、更紗と文が旅を続けるのか、それともどこかに着地するのかは分かりませんが、自分も読書をしつつ、色んな事を思い、そして考えて、生きづらくても何とかこの人生という旅を続けていこう。
本作は、そんなことを思わせてくれる素晴らしい作品でした。