<文学話>私にとっての三島由紀夫

考察

自分が、所謂、純文学を最初に読み始めたのは、三島由紀夫さんの作品からです。

それまでは、いわゆる大衆小説(←何かこの分類の語感嫌な感じ)的な作品ばかり読んでいて、それじゃあそろそろ純文学(あえて純という文字を付けるのには違和感)にでも手を出そうかと思ったのが、25歳くらいの頃←冒頭から分類に関してうるせー

なぜ三島さんを選んだかというと、新潮文庫の赤い表紙と、裏のあらすじがかっこよさそうという極めて、俗物的な理由なのです←本屋で三島さんの棚だけ赤く光って見えました

そして私はその中でも一番タイトルが恰好が良い「仮面の告白」を読み始めたのですが、もはやただただ圧倒されました。

何にって、その「文章」にです。

ここで私の中で、三島さんの文学の解釈を書いておこうと思います。

三島さんの文学は、「自意識」「美」「肉体」などの複雑な問題を絡みに絡め、その業や宿痾などの言葉では言い表せないような人間精神の彼岸を、ひたすら言葉を重ねて掬い取ろうとした、というのが私のイメージです。

そこに「伝統」や「古典」というファクターも加わり、さらにモチーフは現実の事件も多い為、本当に多種多様な世界を三島さんの作品だけで堪能できるようになっています。

とはいえ実のところ、私自身はどちらかというと大きい根源的な問い(人はどこから来てどこへ行くのか)や人間の可能性の光に目を向けたいタイプなので、実はそんなに三島さんの主題とは親和性が無かったりします。

その意味でいうなら、東大全共闘の討論会で言うと、瞬間的に生じる革命や永遠を信じている芥さんの方に考えは近いかもしれません。

しかしそれでも私は三島由紀夫さんの作品が大好きです。

それはなぜかというと、冒頭に述べた「その文章そのもの」にあります。

実は三島作品の主題というのは、結構捉えやすく、あらすじや主題を説明しやすい作品が多いように思います。

しかしたとえその主題をいくら述べたところで、その本質が絶対に説明出来ないのが三島文学だとも思います。

なぜなら、三島作品はその文章自体こそに本質が宿っているからです←君は何回それを言うんだね

三島さんの文章は、言葉に言葉、修辞に修辞を重ね、バロックのように積みあげた上で、そこから美しいけれど、範囲がシビアな小さな穴にそれを通すような繊細さを兼ね備えているという、ものすごいものです。

その文章はあまりの美しさに感動してしまうものもあれば、意表を突かれ心を揺らぶられるもの、思わず笑ってしまうものなど様々です←面白い文章もマジで多いのよ

そしてその文章は主題を飛び越えた上で、主題とまじり、唯一無二の本質を覗かせてくれる、そんな印象が三島さんの作品にはあるのです。

つまりいくら説明されたところで、三島さんの作品の本質は、その人が実際に読み文章に触れない限り、説明出来ないものなのです←ゆえにインスタント本とかそういうのはほぼ無意味(でも導入ならいいかも)

例えば、「金閣寺」について、美しい物を燃やさなくてはという強迫観念と、性の劣等者である意識と女性への恐怖が結びついていると解説したとて、それはそうなのでしょうが、そのどれもが細部の細かい本質を掬い取れてません。

その意味で三島作品の本質は、その細部に宿り、それが全体へと還元されていると言えるのかなと思うのです←だから私は三島さんの作品は考察しません、というより出来ない

本記事内で三島さんの主題と、自分はそれほど近くないと言いました。

どちらかというと、私は村上春樹さんの「想像力の重要性」やドストエフスキーさんの「大地の力」「はみ出し者への視線」というテーマに親和性を感じます↑上記はあくまでテーマの一部

しかし三島さんの文章で「自意識」や「肉体」、「美」と「憎しみ」というテーマに触れる時、私の精神は新しい感覚に心を揺り動かされるのです。

その意味で村上さんやドストエフスキーさんが自分にとって共感とその先を見せてくれる文学なら、三島さんの作品は、自分とは違う新しい感覚を想起させてくれる文学なのかもしれません。

そんなわけで、今回は一度どこかで書いておきたいと思ってた、私自身が感じる三島さんの事をここで書かせてもらいました。

また自分が何か言いたい作家さんの事があったら、こんな感じで書いていきたいと思います。

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