<考察>パラノマサイト FILE23 本所七不思議 ゾクゾク楽しい、呪いの世界

考察

「パラノマサイト FILE23 本所七不思議」は2023年にスクウェア・エニックスから発売された、ホラーアドベンチャーゲームです。

墨田区に本当に伝わる「本所七不思議」という伝承を元に、呪いの力を行使出来る呪詛珠を手に入れた登場人物たちの暗闘と、その背後にいる黒幕の正体を探っていくという、二つの軸を元に進んでいく非常に力強いエンタメ性に溢れている本作。

アドベンチャーゲームというのは基本的には、選択肢を選ぶ、テキストを読み進めていく、ボタンを押していくという単純な作業の繰り返しになるので、プレイヤーに飽きさせない為の工夫が必要なゲームジャンルだと思います。

その意味で本作はレトロかつ怪しい雰囲気、魅力的かつテンポの良いクスッと笑える会話、体感的で操作になじむ効果音やサウンドなどなど、その完成度はずば抜けです!!

そんなエンタメ性あふるる本作において圧倒的に抜きん出ているものがあります。

それは制作者の「呪いとか伝承とかって最高に楽しいぜえええ」というテンションが滲み出ている事です。

それは登場人物にこそ顕著で、本作に出てくるほぼ全ての人間がヤヴァイ人たちです笑

ていうかもはやヤヴァイ人達のアベンジャーズまであると言っていいと思います。

その魅力的なヤヴァさの渦に飲み込まれることは、くせになるような快感があり、プレイし終える頃には本作の魅力に憑りつかれているはずです。

もちろん、「利己主義」「無敵の人」「バブル経済に向かう人心」「公害問題」など、社会的な目線も本作にはしっかりと練り込まれています。

そんな本作を自分なりに考察していこうと思います。

以下、ネタバレを含みますので嫌な人はここでストップしてね。

ただ2000円しないで買えて、そこまで時間を取らずにクリア出来、かつ値段以上の価値がある作品だと思うので、是非気になったらプレイしてみて欲しい!!

本作は墨田区に実際に伝わる「本所七不思議」という伝承をアレンジし、かつそのストーリーを一つに繋げ再構成して、それを物語に軸として組み込んでいます。

それらの代表的なものは

「置いてけ堀」「送り提灯」「送り拍子木」「消えずの行灯」「片葉の芦」「落葉なき椎」「馬鹿囃子」「津軽の太鼓」「足洗い屋敷」

などで七不思議という割に、実際には10種類以上の奇談が伝えられているとのこと。

例で言うと

というような伝承です。(上記はゲーム内での説明)

そしてその内容に応じた呪いの力を、呪詛珠を持つことで行使出来るというのが、本作のフォーマット。

ついでに上記の「置いてけ堀」は「自身の前から立ち去る者を溺死させる」という能力です←かなり強い部類の能力

そしてその能力で人を呪い殺し、魂の残滓である「滓魂」を集めることで、人を生き返らせることが出来るという「蘇りの秘術」を巡り、呪詛珠を持つ人間たちが争うわけです。

その意味で本作のフォーマットは、00年代に流行った「少女革命ウテナ」や「仮面ライダー龍騎」の様な、願い叶う系バトルロイヤルであり、かつそこにドラコンボール的なノリも加わっているという、バトルロイヤルコレクションミステリーホラゲーなのです←まじでマシマシ笑

仮面ライダー龍騎の「戦わなければ生き残れない!」というキャッチコピーは、00年代の自己責任、自由競争、勝った者が正義という思想が反映されており、見ていて非常に殺伐とするものがありましたが、本作はそこから20年経ち、「呪い殺す」という、陰湿さがそこにプラスされています。

ウテナや龍騎はあくまで、正面から敵と戦っていましたが、ここにきて、いかに裏で画策し能力で呪い殺すかという風に変化したわけです。

20年代においては、自由競争礼賛や自己責任論は少しなりを収めましたが、現在の社会は底を抜け、モラルは崩壊し、一部の富裕層以外は、スマホでエンタメを摂取し、どうにかわずかなお金でやりくりして生きていくという地獄のような様相を呈しています。

それらの庶民の怨嗟や、怒り、そして持つ者への妬みなどが、呪いというものにより、エンタメとして昇華し、「誰かを呪い殺したい」という現実では不可能な欲望を実現させているのが本作の一面なのかなと私は思います←そもそも誰にも羨む心はある

その意味で、ウテナや龍騎の時より、我々の精神状態は過酷とも言えますが、だからこそエンタメは突きぬけ、その気持ちを発散する力やエネルギーが必要なのだとも思います。

私は、エンタメに過剰なコンプラを求めるのは、自分たちの手足を縛るので良くないと思う立場です。

もちろん歴史的な経緯や差別を助長するものは論外ですが、それ以外のものは、それにどんな感想を持つのかは自由ですが、それの発売や出版を規制するのはダメだと考えています。

発売した上で、自由に意見を言い、それを元に買いたい人は買えばいいし、嫌な人は買わなければいいと思います←やりすぎな表現をすれば口コミで売上的に制裁されると思う

その意味で言うと、本作は「呪い殺す」というテーマの元、ヤバい人が続出し、かなり人が死ぬエンディングもあります。

しかしそのある種の突きぬけ感は、個人的に心地よく、制作者が全力で「呪いとかぞくぞくする雰囲気って楽しいだろぉ、なあ最高だろぉ」とこちらに投げてきているのが伝わるので、非常に面白いのです。

謎、呪い、ホラー、バトル、コレクションなどなど、本作は、これらの快楽原則を刺激する、様々な要素を詰め込んだエンタメ大作です。

本作の主人公である興家彰吾

その他にも福永葉子、津詰徹生、灯野あやめ、志岐間春恵、櫂利飛太などなど。

彼らはそれぞれ違う方向性に飛び抜けた、ヤバいやつばかりです。

偏見の無さ・柔軟さが突きぬけている人、快楽至上主義者、行き過ぎた芸術至上主義。

それぞれに個性はありますが笑、ほとんどの人物に、自分やまわりさえよければいいという「利己主義」が乗っていることが、ある種のポイントのような気がします。

それでは以下、それぞれにスポットを当てて見ていきます。

彼ら彼女らの自身の欲望に忠実な快楽サーカス、好き放題やるはみだし者の突きぬけ感は、何とも言えない不思議な心地よさを与えてくれるでしょう!

本作の中でトップクラスにヤバいのが、灯野あやめです。

彼女の目的は、ずばり葛飾北斎を蘇らせる事

これギャグではなく、本気です。

そのもはや超越している目的を、軽いテンションで、周りで利用出来るものは全て利用し、全力で邁進していく姿は狂気的でありながら、何とも言えない不思議な魅力があります。

そんなあやめの目的の背景には、非常に複雑な家庭環境と、愛情の欠如という心的要素が横たわっています。

そもそもあやめは津詰の本当の娘ではなく、大量殺人犯である根島の事件現場で保護された赤ん坊であり、根島の娘である可能性も濃厚です←このことについては津詰の項目で触れます

その意味で普通の子よりも、より慎重に、より愛をたっぷり与えて育てなければならなかったはずですが、津詰は良い人でありながら、非常に適当であり、かつ超仕事人間なので、上手く愛を伝えることもせず、ギクシャクする母とあやめの間に入ることもなく、警察の仕事に邁進してしまいました。

ゆえにあやめは、緊張感がありつつ、どこかしらドライな空気感の中で育っていかざるを得なかったのだと思うのです。

私は子供の頃というのは、とにかく親から無条件に肯定され愛される必要があると思っています。

あやめはそこが決定的に不足した結果、表面上の愛嬌だけはありつつ、内面に虚無を抱える事になってしまったのだと思います。

そしてその虚無を、愛の代わりに埋めれくれたのが浮世絵であり、ゆえに自分を救ってくれた浮世絵や北斎の為なら何でもやる。

あやめは虚無が生んだ芸術至上主義者なのです。

さて、ここで重要なのは、あやめは浮世絵に実の所は、本質的には救われていないのでは?という点です。

浮世絵も含み、大きく絵画というのは、自然の一部を取り出したり、その他の様々な具象や抽象を描く事により、普遍的に救われるような何かを描く事を目的の一つにしていると、個人的に考えています。

しかしあやめの中の虚無は、浮世絵に夢中になっても全く消えていません。

私はあやめが浮世絵から何を思ったかは分からないし、その感想も否定しませんが、浮世絵の中から、本当の救いを得られていないのは、そのあまりに自己中心的な願望からみても明らかだと思います。

おそらく北斎もそれ以外のどんな画家も、呪い殺した代償の復活など望まないし、喜ばないでしょう。

つまりあやめは結局のところ、虚無が内面を支配しており、自分の価値も信じておらず、いつ死んでもいいと思ってるゆえに

「それなら呪いゲームで沢山殺して魂を集めて北斎を復活させよう」(自分の命が軽いから他人の命も軽い)

というような虚無で投げやりな、所謂、「無敵の人」なのです。

虚無+無敵の人+歪んだ芸術至上主義。

それがあやめということです。

その意味で、快楽主義者で自身も楽しんでおり、死ぬ気など毛頭ない福永葉子とはまた違うヤバさです笑

あやめが勝つエンディングは、個人情報を知っていてどうでもいい順から人を呪い殺し、それだけではまだ北斎復活には滓魂が足りず、各所から手に入れた電話帳などの個人情報を元に、片っ端から人々を呪い殺し、北斎の魂を自身に宿させた(そこは詳しいことは書かれない)という、ゲーム史に残るスーパーサイコなエンディングです。

もはやここまでやりきるなら、あっぱれとすら思ってしまいます。

あやめが勝つルートはおそらくバッドエンディングの扱いであり、それ以外のルートでは比較的まともな結末におさまりますが、その内面に恐ろしい狂気と、常識的な外面を抱え、そしてアンビバレンツに、どこか揺れているのが彼女です。

実にヤバく、実に魅力的なキャラクターです。

本作は、主人公扱いである興家彰吾が、序盤のみと終盤のみの操作で、そのほとんどはセイマンの魂であるプレイヤー自身(これがメタ要素)が、各章のキャラに乗り移り、選択肢を選び進めていくことになります。

そしてそのキャラたちの中でも、刑事として事件に迫り、呪詛珠を集めていく津詰が事実上、物語の中心になります。

津詰は一言で言うなら、陽気で憎めない少し変なおじさんです。

しかし変なセンスを持ちつつも、そこが親しみやすくかつ刑事としても優秀で、部下で陽キャの襟尾とテンポのいい愉快な会話を繰り広げている様子は楽しく、おそらくミヲちゃんと並び、本作においてかなり人気のキャラなのだと思います。

そんな津詰には、更に他に追随を許さないパーソナリティーがあります。

それは異常とも思えるほどの柔軟さです。

そもそもとして自分が追っていた殺人犯の事件現場にいた子供を保護し育てていくという決断自体が、相当に柔軟です。

自身の子を死産し気落ちしている妻の為、事件現場にいた子供の顔を見て何かを感じた、などなど、色々な理由を並べることは出来ますが、その本当のところは、その時の津詰にしか分からないのだと思います。

しかしその選択肢を選べ、決定出来る時点で、枠にとらわれない柔軟な思考の持ち主です。

更にかつて捕まえた大量殺人犯の根島と話す時も、なんていうか腐れ縁の友達として話しているみたいであり、津詰は根島と話すことを諦めていないし、排除していない感じがします。

おそらく津詰は、正常者と異常者というような安易な境目を設定していないのです。

ワイドショーでは、犯人をおどろおどろしいBGMで装飾し、あたかも自分の常識外の存在であるように報道することが多く、それは視聴者にとっても、自分の正常性が担保されるので心地よいです。

しかしその事件には、必ず本人たちにしか分からないような心の動きや機微があり、外部からそう簡単に判断を決定することなど出来ないはずです。

本作では多くの人間が、選択肢により人を殺さない未来になったり、逆に呪いを発動して、人を犠牲にする未来を選択したり、一つの行動により複雑に未来が変わります。

そう考えると私たちだって、その環境に置かれたり、その状況になったら何をするかはその時にならないと分からないのです。

その意味で罪を犯した人間を、自分とは違う異物の様に扱うことは、想像力が足りない非常に狭量で不幸な論理だと思います。

それは突き詰めていくと、異常者は切り捨てていい、という排除の論理に繋がり、排除された人は社会を恨み、呪いが生まれます。

その意味で「呪い」は特別なものではなく、現代社会でも人々の狭量さ、自分さえよければという考えが沢山の呪いを生んでいるのだと思います。

本作において津詰は根島と線を引かずに接し、自分とは違うものではなく、同じ人間として喋っています。

その意味で、呪いを終わらせる為に呪詛珠を回収する役割は、呪いとは無縁な柔軟性がある津詰が最適なのです。

ただしそんな津詰も完璧なわけではありません。

持ち前の柔軟さがいい加減さになり変わり、あやめとのコミュニケーションを、仕事に邁進し放置した結果、絆が薄れ、そして事件はより複雑化してしまいました。

しかしそんな完璧じゃない部分や、笑えるテンポのいい会話も含めて、そのルーズさもまた津詰の大らかな魅力に結びついています。

あやめに「自分たちの娘だ」と言い張り死ぬエンドは、今まで放置した責任から逃げないという覚悟や、親としての不器用な愛情を感じます。

その意味で、度を越えた柔軟さを持つヤバい男、そしてそれが非常に魅力的。

それが津詰徹生なのだと思います。

次項は、興家彰吾と福永葉子というヤバい二大巨頭は後の項目に残し、本作の女性たちの比較についてを語ろうと思います。

本作に出てくる女性陣には、ある種の特徴のパターンがあるように思います。

それはずばり「江戸っ子ちょいヤンキー女子」は心が真っ直ぐで、逆に「東京系シティー派アート女子」は、中身がカオスでヤバい奴が多いということです笑

まずチーム江戸っ子からいくと、逆崎約子は、友達である美智代の為に必死で行動しますし、蝶澤麻由は自力で監禁先の工場から抜け出した後、恋人の無念を晴らす為、津詰たちの捜査に協力します。

総じてべらんめえ口調ですが、キリッとしていて根が熱く、皆真っ直ぐな人間です。

転じて、可愛らしいカジュアル女子である福永葉子、アート系のゆるふわ女子である灯野あやめは、その奥底に歪んだ欲望や願望を抱え、無敵の人となり夜の闇の中を暗躍します笑

この対比は恐らく無意識に現れている制作者の性癖だと思いますが笑 それをキャラクター描写やセリフで全力でぶつけているからこそ、本作はカオスであり面白いのです。

少しぽっちゃりの不思議系黒魔術女子のミヲちゃんは、もはやその属性の多さも含めて人気なのは納得。

自身の嗜好や好みに嘘をつかない姿勢が、本作の面白さにより複雑な深みを醸し出している、そんな風に私は思います。

ヤバいエンタメとして突きぬけている本作。

しかしその一方で、社会派として血なまぐさく、笑えない側面もしっかり描き、それは特に白石美智代の事件に顕著です。

私は本作のキャラはどこかしらぶっとんでおり、それが好きなのですが、そんな中、胸糞で許せないのが、白石家に寄生し、残虐な仕打ちを行った岩井です。

根島は、歪んでいますし、全く肯定出来ませんが、少なくとも、自分の意志と目的をもって行動しており、第二次大戦に従軍した際に何かしらのトラウマを抱えた可能性も推測出来ます。

しかし岩井は、そんな根島を崇拝し信奉するだけの便乗犯であり、そこにあるのは底の浅い人間性と承認欲求だけです。

私はどんなエンタメにも多少は時代の影響を受け、制作者が無意識にしろ意識的にしろ抱えている社会的知見が出ると思っています。

本作はバブルに入る前の東京を扱っていますが、バブル期に入ると金銭主義が横行し、何かに便乗し金にたかるハイエナみたいなクズが大量発生した様な印象があります。

その様な浅薄さと歪められた承認欲求、自分さえよければいいという利己主義を岩井は象徴しているように思うのです。

そしてそのような浅薄な欲望の犠牲になるのは、常に子供など、純粋で弱い存在である、そんなことを思います。

本作の黒幕ではないものの、相当業が深いのがヒハク石鹸の会長である山森ナツヱです。

日本では1950年代から70年代の高度経済成長にかけて、公害問題が続出しました。

そこにあるのは「利益さえ出れば」「ばれなければ」という利己主義、金銭第一主義の発想であり、それが環境を害し、多くの健康被害を生みました。

その成長期の奔流がバブルでさらに弾け、勝った者が正義の競争至上主義、負けた者は努力が足りなかったという自己責任論が合流し、社会は殺伐としてくるわけですが、本作のナツヱもその価値観の延長線上にいます。

利益さえ出せればというのは、お金に第一を置く発想で、勝った者が正義というのは、結果に重き置く発想です。

それは形式的で非常に分かりやすいものである一方、即物的で外形的で個人の精神性を蔑ろにするもので、そこがいきつく幸せは、いかに良いものを消費するか、外見の良い異性を抱くかという事に収束し、それは非常に哀しい幸せの一類型の様に思います。

形や結果だけを求める人間が、容姿や若さを追い求めるのは必然で、ナツヱには年を経て豊かになる精神性という価値が分からないのだと思います。

とはいえナツエだけがその文化の象徴であるわけではなく、本作に出てくる人物の多くは目的がどうあれ、自分か大事な人の為に、他人を呪い殺そうと考えているわけで、そこには、自分さえよければ他人から奪ってもいい、というバブル期から今まで生き残っている思想があるように思います。

当たり前ですが、「自分さえよければ」という発想は、それにより何かを奪われた人の恨みを生み、その恨みはいずれ自分にも返ってくることになります(ずっと勝ち続ける人生などない)

現代ではそこに、そんな社会が全く変わらないという虚無感や、持つ者と持たざる者の格差による怨嗟が加わり、その呪いの連鎖は拡大しているように私は思うのです。

本作の黒幕である福永葉子。

この考察は彼女の事を書きたいから始めたと言う位、好きなキャラだったりします←この段階でヤバいと思った人、気持ちは分かるが最後まで読んで欲しい

正直、本作の黒幕やメタの仕掛けは予想できたし、個人的にあまり驚きはありませんでした。しかし、葉子の在りかた・描き方に関してはあっぱれ!!

なぜなら彼女にあるのは、世の中を呪いで掻き乱したいという欲望だけで、それ以外の思想性などまるでないからです。

普通のミステリー作品には、犯人には、その行為に至らざるを得ない恨みや、かり立てた理由あります。しかし葉子にはそんなものは皆無です。まさに振り切った快楽ピエロそのもの。

私は最初、葉子の背景があまり語られない事に対し、もう少し掘り下げて欲しいなという、一般ミステリーマインドを愚かながら抱えていました。

しかしクリアしてしばらくすると、隙間時間に福永葉子の背景を考えている自分を発見し、なるほど語られないからこそ、葉子という存在の深みが増してくるんだなと考えを改めました。

ゲーム全体の中で葉子のテキスト量は少ない部類に入ります。しかし日に日になぜか心の中で増してくる不思議な存在感笑

特に私の中で今年一番のセリフオブザイヤーを受賞したのが以下のセリフです。

「あのー。わたしがさっき飲んだジュースの空き缶を1万円で買い取りませんか?」

「今ならフライドチキンの骨も一緒に付いてくるのでお得ですよ!」

↓その場面の写真:何という軽やかな表情なのだ笑

このどこかぶっ飛んでいる絶妙な軽さ笑

もちろんこれは「置いてけ堀」の能力発動の為、相手をここから立ち去らせようという狙いがあるわけですが、それにしてもこのセリフこそ福永葉子という人間のパーソナリティーをコミカルに現わしています。

またゲーム内の設定資料に書かれているのですが、葉子はこの事件の為に準備はもちろん、一生懸命修行したりもしています笑

そして最初のルートで、一生懸命準備した割に、呪いが呼び起こされた瞬間、セイマンの精神に返り討ちにあい、涎を垂らし溺れ死ぬのもマジで草です。

恐らく葉子にあったのは社会や自分の周りに対する退屈なのでしょうが、その退屈の中でつまらないと不平をこぼしながら何も行動しない人間が多い中、葉子は自分から能動的に行動しており、そこもまたある意味ですごいと言っていいポイントだと思います←若干アクロバティック擁護

私はミステリーにおいて主役や黒幕には、制作者の思いが一番乗っかるものだと思っています。

その意味で言うなら葉子はつまり

「呪いとか最高だろうがああ、ヒャッハー!!」

という本作の思想性を体現した剥き出しのパワーを持った存在なのだと思うのです。

本作において、正確にいえば興家彰吾は主人公ではありません。

主人公はセイマンの魂であり、その魂が登場人物たちとリンクして物語を進めていくわけで、その意味で言えば彼はあくまで主人公格の一人という扱い。

とはいえ、セイマンの子孫で、その血を濃く受け継ぎ、かつ物語の始まりも終わりも彼なわけで、本作の最重要な登場人物であることは間違いないです。

さてさて、そんな彼ですがゲームにおける呪いのチュートリアル的な構成や、セイマンというまともな人格の主人公がいるから自由にキャラを描ける、という二つのあおりを受け、結果、本作において最大級のヤバい人間になってしまいました。

とにかく彼はゲーム開始直後から、出会ってそんなに間もない葉子ちゃんを生き返らせる為に、呪詛珠を持つであろう人間を問答無用に全員殺していきます。それが女性であろうが自分より若い大学生であろうが容赦なしです。

そして輪をかけて凄いのが、セイマンの魂が呪いの行使を選択しないでも、その意志に彼は逆らい、とにかく呪い殺していくところです←明らかに血筋の力の使い方を間違えておる

恐ろしいのは、殺す理由が、突き詰めると、「少しコケティッシュで魅力のある葉子ちゃんにほれている」という、非常に浅はかな性的力に起因する理由それだけな事です。

例えば春恵のように、殺された子供を生き返らせたいというなら、まだ話は分かりますが、興家くんは葉子の事を表面しか知りません。(事実、快楽魔)

普通に考えれば、呪い殺す人の背景にも家族がいて、どういう事情があってとか、そう言う事を考えるわけですが、彼はそう言う事に思いを馳せる様子はありません。

設定資料の説明の中で彼は、学生運動が落ち着き、カラーテレビ文化全盛期の中に育ったノンポリとして、ぼんやり過ごしていたことが語られます。

そしてなんとなく選んだ会社(ナツヱのヒハク石鹸)で、なんとなく昇進、結婚し、定年まで働くことに疑問をもっていません。

別にノンポリはいいし、人生設計は好きにすればいいのですが、人を殺すにおいてすら想像力が皆無であり、そして性欲に起因した「俺の葉子さんを救えればそれでいい」という、独りよがり性欲世界系なのが、まじでヤバいのです笑

そんな浅い理由なのに、セイマンの意志を跳ね返し、殺しに突き進むのもヤバヤバ笑

ここからは個人の感想ですが、あやめや葉子のヤバさに関しては、自分の欲望と感情を理解しその成就の為に突き進むという、ある種の清々しさがあるのですが、興家くんにあるのは、壊滅的な想像力の無さ、歪んだ浅はかさであり、かつ自分はそれに気づいていないという点も含めて、個人的には本作の主要人物の中で一番、乗れないキャラでした←ただしヤバさは認める笑

そう思うと江戸時代の正義感あふるるセイマンの魂が、近代資本主義社会になりここまで劣化してしまったのだ、という社会的メッセージのようにすら思えてきます←違うだろうけど

そんなわけでとにもかくにも本作は、興家彰吾と福永葉子のコンビで始まり、そのコンビの決着をつける形で終わるわけですが、これを少しメタ視点で見てみると、興家彰吾くんの印象も少しだけ変わってきます。

葉子の項目で、黒幕や犯人には制作者の思いが一番乗るのでは? と述べましたが、もちろん主人公にもそれは強く乗ると思います。

葉子の要素を象徴として表現するなら、「本所七不思議の舞台を準備し皆を楽しませようとした存在」であり、そして興家くんはその葉子の魅力にどっぷりなわけで、言い換えると「呪いや伝承の持つ魅力に引き込まれてしまった人間」。そう捉える事も出来ます。

つまり興家くんは、本所七不思議という妖しい響きに誘われ、本作をプレイしその魅力にはまってしまったプレイヤーの分身とも言えるのです。

プレイヤーだけでなく製作者の「呪いの魅力にどっぷり浸かりたいんじゃ」という気持ちも彼には等しく反映されているのでしょう。

その意味で制作者の「呪いって楽しんだぜえ」という心が葉子に、「呪いを楽しみたい」という心が興家に分かれて乗っていると考えてもいいと思います。

その意味でこの二人は、本作において、本質的にも中心の軸を構成している、そんな風に思います。

本作の本質はずばり「呪いとか伝承とかって楽しいよなぁぁ!!」というのを全力でぶつけることです。

その全力の中には、製作者の性癖や、ワクワクする要素、脱力系のコミカルさ、看過しえない人間の業のようなものが含まれ、それが凝縮され本所七不思議というフォーマットに乗っかっているので、こんなにも独特の魅力があるエンタメが生まれたのだと思います。

全力で何かを表現したゆえに、登場人物は突きぬけ、活き活きとし、それが良い意味での自由さに繋がっています。本作の人物はクセになるような魅力を持っている人物ばかりです。

そしてそのヤバさを描き切ることで、現代社会にも繋がる人間の欲望や闇が浮かび上がってきます。

呪詛珠をもつ登場人物のほとんどが、色々な理由があるとはいえ、「自分と周りさえよければいい」という、自己責任論に繋がる利己主義を抱えていますし、「自分ですらどうなってもいい」という虚無主義、その延長線上で多くの人を巻き込む「無敵の人」など、全てが現代社会が抱えている精神の闇です。

前項の興家くんの、非常に浅い世界系というのも、現在のエンタメの一つの主軸を揶揄しているようでもあり、その根底には想像力の欠如があるのも、そのままザ・現代の様な気がします←君さえ居れば世界なんてどうだっていいなんてことあるわけがないのだ

その意味で本作は、ホラーやミステリーをしっかりエンタメとしてやりつつ、多種多様のヤバい人間を描き切ることで、現代社会や人物ををカリカチュアもしているという、面白くかつ尖った、愛するべき稀有な作品のように思います。

ホラーアドベンチャーゲームの可能性を改めて実感させてくれた本作に感謝して、本考察を終えます。

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