<書評>「ドリアン・グレイの肖像」 芸術と魂の分離、そして表層の敗北

書評

「ドリアン・グレイの肖像」は19世紀のアイルランド出身の作家で、耽美派の旗手として名高いオスカー・ワイルドさんが執筆した、唯一の長編小説です。

私が最初にワイルドさんの小説に触れたのは、有名な短編「サロメ」です。

あまりに美しく、語彙が豊富で、人間存在の真理を、遊びながら揺さぶるような、様々な表現にやられ、これは長編を是非とも読まねばと思い、本屋に直行し本作を購入。溺れるように読了しました。

本作もまた耽美で逆説的な表現は満載なのですが、ストーリーラインはとても分かりやすく、ある種、寓話や童話的ですらあります。その意味で意外と読みやすい小説なのかなとも思うのです。

とはいえ、精神の本質に切り込んでくる言葉の鋭さは、唯一無二で、かつ芸術や魂、良心の問題を正面から描いているわけで、エネルギーを持って向き合うべき作品なのは間違いありません。

そして向き合ったら、その分の、いやそれ以上の質量が確実に与えられる怪作なわけで、これはもう読まないっていう選択肢はありません。

それでは以下、あらすじです。

なお、あらすじの後から、本作の具体的内容に関する書評がスタートします。

既に文庫本の背表紙のあらすじが、ネタバレしており、別段、ネタバレ自体にあまり問題が無い作品だと思いますが(実際の文章に価値がある)、ネタバレが嫌な人は、読むのはここまでにして下さい。

▼あらすじ
類まれなる美貌を持つ青年ドリアンは、友人である画家のバジルに請われ、肖像画のモデルになる。

無事に肖像画が完成する中、ドリアンは、バジルの友人だった快楽主義者であるヘンリー卿と知り合い、彼の感化でドリアンは、退廃的で背徳的な欲望の生活に溺れていく。

しかしある時、ドリアンの重ねる罪悪は、自身でなく、全てその絵画の肖像に現われ、肖像画がどんどん醜くなっていくことを知る・・・

本作の冒頭において、ワイルドが「芸術」について様々な事を述べた序文が挟まれています。

私がその中で、印象的だったのは、すべての芸術は表面的で象徴的であること、表面の下や象徴の奥を読み取ろうとするものは危険を覚悟べきであるという思想で、この他にも、はっとさせられるアフォリズム的な文章が並びます。

そしてその最後は、「すべて芸術はまったく無用である」という言葉で、締めくくられる。ワイルド氏、最初からかましてくれます笑

とはいえ、本作の物語を読み解く上で、この作家の思想は、かなり重大な示唆であり、ヒントです。

本作の本質は、ドリアンが様々な倫理観にもとる行為や行動をするたびに、肖像画が醜くなっていく事であり、物語の内容はここに収斂されていきます。

私は本作は、二つの対立概念を描いている作品だと思います。その片方が「芸術」で、その片方が「魂」。

そして「芸術」の体現や象徴がドリアンで、肖像画がその代償で汚れていく「魂」の体現だと思います。

冒頭でワイルドが言うように芸術が表面的なものだとすると、ドリアンの美や欲望にのみ特化した暮らしは実に軽薄で表層的で、理想的な芸術ライフです。

その表層を守る為に、彼の罪悪感や良心という表層ではない内奥、魂。すなわち重い部分は、全て肖像画が請け負っている。これが本作の構造でしょう。

この構造を解釈するならば、芸術には、悩みや思考なんてものは、本来、不要で形式的な美が全てである、このような思想が導き出されます。

上記の思想を、芸術と魂に切り分け、その観察の経過報告を記しているのが本作だという見方も出来て、そうすると、本作は非常に科学実験的な小説だとも捉える事が出来そうです。

しかし、ここで面白いのが、切り分けられたはずなのに、ドリアンが罪悪感や良心でしっかり葛藤することです。

もし本作が、芸術至上主義が結論の物語なら、徹底的に美しいドリアンがひたすら欲望の為に他者を蹂躙し、幸せなまま天寿を全う、肖像画は家の地下でぐじゅぐじゅに溶けて、消えてなくなるという話になるはず。

しかし本作のドリアンは、美しいけれど、別段非凡ではなく、至って普通の、軽薄で自分中心な青年です。ゆえに彼は悩み、苦しみ、開き直り、転落を続けることになる。こうなるとこの実験の結果は自ずから想定出来ます。

その意味で、私は彼が優美な貴公子ではなく、哀れなフランケンシュタインの怪物にしか見えませんでした。

また本作においてドリアンを、快楽の道へ誘うメフィストフェレスの役割をするのがヘンリー卿なわけで、彼の言葉の表現力はある種、新しい可能性を生産していると思いますが(実在のワイルドっぽいキャラ)、彼からドリアンが実践する快楽や美というのは、全て消費者的なもので、彼自身が生み出しているものは皆無。あるのは外見的な美・スタイルしかありません。

その意味で、やはり彼は徹底して実験上の人形であり、期待されているのはその経過過程でしかありません。

ここで思い出すべきなのは、本作のそもそもの発端はバジルが、ドリアンに霊感を刺激され肖像画を書き始めた事だということです。ゆえに私は本作における真の主役はバジルではと勝手に考えています。

バジルのドリアンへの崇拝は、彼の中で崇高な感覚が刺激されたからでしょうが、本人であるドリアンにとって、その価値の内容は分かりません。

その意味でこの肖像画の表層の芸術部分は、ドリアンの美しさですが、その本質の崇高さ、魂の分部は、バジルの中にある何かなので、厳密に言えばこの肖像画は、あくまでバジルにとっての「魂のある芸術作品」なわけです。

芸術がもし表層的なだけでオッケーなのであれば、「魂のある芸術」という概念自体存在しないことになりそうですが、本作の実験結果たる結末は、明らかに表層芸術、魂なき芸術の敗北です。

であるならやはりバジル自身がその魂を引き受ける必要があり、ドリアンには最初から肖像画を持つ資格はなかったのかもしれません。肖像画は、あくまでドリアンを媒介にしたバジルの作品だからです。

序文でワイルドは、芸術の表面の下を読み取ろうとすると危険が伴う(私は芸術の本質、すなわち自身の魂の本質に下りていくことには危険が伴うという解釈をしてます)と言っていますが、それはバジル自身が読み解くべきものであり、そもそもドリアンに読み解けるものではないのではないでしょうか。

こういう考え方を推し進めていくと、バジルというのは作者たるワイルドさんの分身のようにすら思えてきます。(画家の序文もまた、一つの仕掛けだと思う)

自信の純粋な美への憧憬がジュリアン、そして快楽や退廃への憧れがヘンリー、これはバジルの、いやワイルドさんの中の、二つの要素の対立実験の物語なのかもしれません。

そしてその実験は、表層的な快楽や退廃の敗北に終わります。結局の所、魂の、良心の重力は巨大で、それなき芸術は支えを失い崩落する。

そもそもとして、ワイルドさんが小説家としての性向を持つ以上、表層的な芸術のみに耽溺するのは不可能な気がします。

なぜなら物語というのは、人間の思考、それに伴う重さや結びつきを描かざるを得ないものだからです。その意味でどんなデカダンスな小説も確実にそこに物語はあるわけです。

魂や良心の重力は大事、それを充分に認識しつつ、それでも耽美で快楽的な美しさだけを追い求めていきたい、その分裂的な思考を、美しく破滅的に表現したのが本作なのでは、そんなことを思いました。

ワイルドさんの作品はまだ全て読めていないので、是非とも違う作品も読み進めていけたらと思います。

何だかよくわからないモノを目指し、ブログやってます
本の書評や考察・日々感じたこと・ショートストーリーを書いてるので、良かったら見て下さい♪

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