私はよく町で
「これは一体何に並んでいるんだ?」
という行列に遭遇する。
それを見た時に、私のテンションは急激に上昇する。
人を群れのように集合させ整列させる欲求がそこにあり、しかしそれが何なのか皆目、見当がつかない。これは私の官能的な何か、探求心・好奇心を無性に駆り立てる。
そんなわけで、私はそういう行列に出会った場合、あくまで自然を装い、その行列の周りを徘徊する。
注意しなくてはいけないのは、行列に並んでいる人たちは、「暇でありかつ不自由」という奇妙なストレスを抱えている一種の囚人である事だ。
ゆえに油断していると高確率で、屍肉の切れ端をあざけるような視線で舌打ちを浴びる事は必定で、ゆえに彼らには観察している事、調査しているという事が、ばれてはいけない。
そんな視線を潜り抜け、その行列を調査していくと、まあ大体5割くらいは途中で、何を目的にしているのはは見えてくる。(大抵何かのグッズとか)
そして答えが分かった瞬間に、その行列は私の中で無用の長物と化す。私は未知の行列に興味があるのであって、既知のありふれた欲望の発露などお呼びではないのだ。
しかし驚くべきことは、頑張っても、半分くらいの確率で行列の目的が分からないという事だ。
この高度な情報社会において、これは驚嘆すべき事態である。
そんなわけで、今日はこの得体の知れない未知の行列の目的の、いくつかの可能性を考察していきたいと思う。
まず第一に、彼らの目的が行列自体にある行列フェチの集団である場合だ。
人間の腸や蛇を思わせる長蛇の列、それの一部になることに官能を刺激される変態集団。その意味で行列は同じ性癖を共有する集団になるわけで、新手の街コンの形として行政から補助金が出る可能性もあるかもしれない。
そして第二は、行列自体が記号であり、モールス信号みたいな何かを表現しているという説だ。
もしかしたらそれはアート的な性質の可能性もあるし、権力者たちの横暴を糾弾するシークレットメッセージかもしれない。
第三に関しては、これはこってりパワーの同時並列的展開。すなわちラーメン二郎の行列が空間転移した可能性だ。
神豚・神麺の神隠しならぬ、神移し。しかしその行列の先にラーメン屋はなく、あるのは都市の雑踏と、何の用事もない建物が並ぶのみ、これこそ人生のわびさびの極致かもしれない。
ここらで遊び心を入れるなら、宮沢賢治さんオマージュも充分にありうる。
そうもちろんこれは、彼ら自身が食材である場合だ。
しかしまあそんなことを言うなら、我々自体が社会の歯車であり、自身の体力や精神を社会に奉仕しているわけで、その意味で人類皆、食材と言えないわけもないわけで、このオマージュは一周して、もはやただの普遍に過ぎないかもしれない。
最後にこれが一番、現代的な可能性なのだけど、行列の全員が、その前に並んでいる人のストーカーである可能性だ。
これは実にオープンな推し活的精神の最終形であり、誰かの想いは違う誰かの想いへと繋がるゼロ年代的なエモさの連鎖でもあり、都市に現れた時代精神の博物館ともいえるかもしれない。
行列、それは全てに連なる、何かに踏み出す可能性の顕現なのかもしれない。
(おしまい)

