<考察>「リンダキューブ」 人体という箱舟、そして血愚神礼讃

考察

「リンダキューブ」は1995年に、PCエンジン用に発売され、その後、プレイステーション他、様々な機種に移植されたRPGゲームです。

猟奇的で一度プレイしたら忘れられない物語と、優れたゲームシステムから、カルト的な人気を誇り、今なお神ゲーと言えば必ず名が上がる名作。

私は長年プレイしたいと思い、ついに昨年、リメイク版の「リンダキューブ アゲイン」をゲームアーカイブスでプレイしました。

ぞくぞくしつつ、「どうなるんだ・・・」と一心不乱に先を進め、そしてクリア後、私は思いました。

「これはすげえゲームだ!!」

本作はシナリオA、B、Cと3つのシナリオがあるのですが、それぞれが独立した物語です。(主人公や主要登場人物は同じ)

まずシナリオA、Bで猟奇的なストーリーに震えた後、シナリオCでは、その感情をぐちゃぐちゃにされ、訳が分からなくなり、そして最後までプレイすると、感動するという、未曾有の体験。

神ゲーは世に有れど、ここまで多様な感覚を植え付けてくるゲームは、そうないのではと思います。

そんな訳で、かなり力を入れて考察したのですが、例によりめちゃくちゃ長くなってしまったので、目次から読みたい所だけ読むのも全然ありです。

ついでにシナリオA、B、Cのあらすじは、自分が考察を読み直した時、楽しいから書いているので、プレイ済みの人はあらすじの項目は読む必要はないと思います。

また本編全体の本質やテーマの考察は、「90年代後半、世紀末の文化」からになるので、そこから読むのもいいと思います。

そして改めて言っておきますが、以下の考察は「あくまで私が」このゲームから感じ取り受け取ったものなので、正解とかではなく、あくまで「こいつはこんな風に感じてるんだな」と思ってくれれば幸いです。

それは考察を始めていきます。以下から、物語のネタバレを含むので、嫌な人はプレイしてから見て下さい。というか神ゲーなので是非プレイしてほしいです。

▼あらすじ
物語の舞台は、銀河連邦に属する惑星、ネオケニア。
しかし惑星には8年後に「死神」という隕石が衝突し、誰も生き物が住めない死の星になってしまう事が分かっている。
そんなある時、神を名乗る何者かから、箱舟と呼ばれる宇宙船が遣わされ、同時にメッセージが書かれた巨大な石板が現れる。

そこには隕石が落ちる8年の間に、一組の男女を箱舟の乗組員とし、出来るだけ沢山の動物をオス・メスつがいで収集し箱舟に乗せよ、という内容が書かれていた。

怪しさ全開のこの計画に銀河連邦は、なぜかゴーサインを出し、箱舟の乗組員の男女を募集する。
レンジャー隊に所属しているケンは、幼馴染のリンダが乗組員に決定した事を知り、自身も志願。
動物を沢山集め、箱舟を発進させるべく二人の冒険が始まる。
▼あらすじ
箱舟のクルーになったケンは、パートナーであるリンダを迎えに、彼女の住む町、ミナゴに行くが、そこでは住民の集団失踪事件が起きており、リンダだけが記憶喪失で発見される。

ケンは動物集めをしつつ、リンダの記憶を復活させる方法を探す中、エターナという街に拠点を持つ、グリーン製薬のエリザベスという女社長から、メモリンZという薬があれば、リンダの記憶は元に戻る事を告げられる。

薬の開発をしているパンハイム博士から依頼された材料集めに協力し、ようやくメモリンZが完成。しかし投与する前に、リンダはサンタ姿の仮面の男に連れ去られてしまう。

聞き込みを元に居場所を突き止めたケンが、病院の裏手の建物に向かうと、そこにはサンタ姿の男とリンダ。さらにナイフで殺された男の死体があった。

サンタ姿の男の名前はネクといい、ケンの双子の弟であり、事切れているのは二人を捨てた実父だった。

自分が兄であるケンの為にも実父を殺し復讐したのだと告げるネク。そしてネクはリンダに殺人の罪をなすりつける為、ナイフを握らせ、そのまま消える。

あやうく拘束されそうになるリンダだったが、レンジャー隊隊長のベンとケンの母ミームの計らいで隊員に変装。リンダはケンと共に動物集めをしながら自身の記憶を取りもどしていく。

しかし再び現れたネクが、催眠術を使いリンダを連れ去る。野犬の集団をけしかけられ窮地のケン。しかしそこに突如現れたリンダの父であるヒュームがケンを救う。

ケンとヒュームの二人は、その後の調査で、リンダがグリーン製薬のあるエターナに居る事を突き止め、二手に別れエリザベスの屋敷に乗り込む。

屋敷の奥には、水槽の中に沢山の人体が浮かび、その前にエリザベスとパンハイム、リンダを連れたネクがいた。エリザベスはリンダの肉体を手に入れる為、ネクを使い暗躍していたのだ。

ところがネクは、エリザベスを油断させた隙にナイフで殺害。するとその死体はあっという間に白髪の老婆へ変貌する。

エリザベスは自分の若さを保つ為に、ビースチャンの若い女の体液を吸い続けてきた、という驚きの事実を語るネク。ミナゴの集団失踪もビースチャンの肉体を手に入れる為だったのだ。

エリザベスの誤算は、ネクがリンダを渡すつもりはなく、協力するふりをしていた事。

ネクは学校にも行けずに惨めに死体探しをさせられていた過去を語り、ケンと自分の人生を交換する事を要求する。

曲芸師のような動きのネクとの戦いに苦戦するケン。しかし直後、巨大な体躯のサンタ服の仮面の男がネクをナイフで突き刺す。

ネクはケンにリンダを託し早く逃げろと言うものの、巨大な体躯の殺人サンタは、ケンとリンダの前に立ちふさがる。間一髪でベンが率いるレンジャー隊が到着し二人は事なきを得るが、殺人サンタを取り逃がしてしまう。

無事に自宅のある町に戻り、レンジャー隊の拠点に顔を出すケンとリンダ。そこに殺人サンタからメッセージが届く。

それは、リンダの母アンの悲鳴と、手を出さないでくれと懇願するヒュームの声と共に、パパとママは預かってる事、楽しいパーティーをするからケンと二人で遊びに来いという驚愕の内容だった。

メッセージにあったヒントを元に、殺人サンタが待つ、グリーン製薬の工場に辿り着くケンとリンダ。

そこで目にしたのは、自身の腹の中にアンの肉体を埋め込み、常軌を逸した表情を浮かべているヒュームの姿だった。

エリザベスは、若返り薬の人体調達の為、薬物を使い、ネクだけでなく、リンダと肌の色が違う事で自分の子かどうか悩んでいたヒュームに目を付け、薬漬けにし、人体調達をやらせていたのだ。

しかしネクにもヒュームにも各々の思惑があり、エリザベスはネクに殺され、そのネクは最終的にヒュームに殺される事になった。これがこれまでの事件の真相だった。

激闘の末、ヒュームを追い詰めたケンとリンダ。

ヒュームは後悔とリンダへの愛を語り、そのままアンもろとも溶液の中に飛び込み白骨化する。

涙を浮かべ、「ケンは私のそばにずっといてくれるよね」そう問いかけるリンダに、ケンはずっと一緒だと答える。

その後、二人は動物を集め終え、箱舟を発進させるのだった。

サンタ姿で仮面を付け登場するネク、その顔は自分と瓜二つ。シナリオAの物語は、その初めから非常に悪夢的です。

過去の物語にも、ある日、自分自身と瓜二つの人間が突然現れる作品はあり、私が真っ先に思い浮かべたのがドストエフスキーの「二重人格」という作品です。

この作品は、本来の自分の抑圧された欲望や意識が、自由気ままに自分の現在の生活を奪い、浸食していく様な、心理的な内容でした。

シナリオAに関しても、仮面サンタのネクが自身の想い人であるリンダを連れ去り、殺人の罪を被せてしまおうとするというような、自分の影が愛する者を汚し、そして徐々に浸食されていくという感じが非常に顕著です。

さて、ドストエフスキーの「二重人格」とは違い、本作のネクは、実際に存在する血を分けた弟です。

しかし孤児である二人は、その引き取り先により、完全に運命が真逆になりました。その事実を踏まえて見た時に、ネクはケンのもう一つの可能性。もう一人の自分として捉える事が可能になるようにも思います。

本作のシナリオCは、運や環境等の些細な事が、人間の意識を大きく変える事の証左を、一つの目的にしていると思いますが(詳しくは後述)、ケンもネクの様になる可能性は環境次第で容易にあったのです。

その意味でネクはケンの影であり、もしかしたらそこにケン自身の無意識に眠った欲望が投影されているかもしれません。

抑圧されて優等生を続けてきた人がポルノスターになったりする事例も多いように、人間の欲望と意識というのは複雑で、そして簡単に反転するものなのです。

ネクはケンと人生を交換したがっていましたが、もしかしたらケンの方も、血と狂気の人生を奥底で求めていた可能性も無いとは言えません。

その意味で、ネクはケンのイドの顕現なのでは、そんなことを思います。

シナリオAは薬害の話でもあります。

私は本シナリオのテーマを「弱さ・欲望・悪夢」だと規定していますが、その全てに密接に絡むのが薬です。

製薬会社は、西洋科学の発展と共に、資本主義や成長を従え、その利益を増大させてきました。しかし本来なら薬を扱うという事は、人々の病に寄り添い、それを治療する福祉的な役割が主なはず。

しかし新しい薬を開発したら、特許戦争に邁進し、かつ新技術が既存の薬を追い払いそうになったら、その技術を利用する事を止めてしまう。

もちろん全ての会社がそうとは言いませんが、私は製薬会社に、福祉よりも利益と成長を重視し巨大になってきたという印象を持っています。

そして「自社の利益の為の成長」を人間における「自身の欲望の膨大化」に置き換えると、それはグリーン製薬の社長であるエリザベスという人間そのものに当てはまります。

自身の若さを追い求めたあげく、グリーン製薬の増大する資金を、その為に使い、あげく人間から生命と若さを搾り取る。

エリザベスはその意味で、欲望と成長の権化と言ってもいいかもしれません。

本作が発売された90年代の後半は、覚醒剤やシンナーなど若者の薬害問題がとても深刻でした。また現在も大量の風邪薬を飲みオーバートーズ状態になる事が問題視されている事から見ても、薬害というのは資本主義社会が常に抱えている問題なのだとも思います。

快楽性のある何かに依存してしまうのは弱さであるとも思いますが、それは社会が生きづらいからでもあり、そこに逃げ込むしかない人もいるわけです。

その意味で「成長」を突き詰める事と「快楽」を求め続ける事。「依存」により深みにはまっていく事は、構造的に似ていて、どちらも突きつめて先鋭化していくと、破滅が待っています。

ヒュームはNTR、ネクは毒親と理由は違いますが、どちらも薬が、彼らの生きづらさや弱さに付け込んだのは間違いありません。

その意味でシナリオAの諸悪の根源は、薬を自身の美貌の為に使い、人間をすり潰し養分としたエリザベスにあるのは自明の理だと思います。

グリーン製薬のある町、エターナは終始クリスマスの音楽が流れ、住民は全員サンタ服です。

シナリオAの不穏な空気と悪夢感がそれに重なる時、その町の光景は、得体の知れない気持ち悪さや狂気をはらむものへと変化します。

エターナの語源は英語の「エターナル(永遠の)」からきているものだと思いますが、この町の状態はエリザベスの精神の狂気、「永遠の幼児性」を端的に現わしています。

エリザベスがグリーン製薬をどのように経営しているのかは作中では分かりません。しかし彼女の劇中の態度や言動から感じるのは、異常とも思える無邪気さです。

まるで子供がサンタにプレゼントをねだるかのように、彼女は自身の若さの為に、死体を冒涜し、人間を亡き者にしていたのではないか、そんな風に感じてしまいます。

「ずっと若いままがいい、このままでいたい」という思いと、「ずっとクリスマスがいい」という思い、その持つ根は程度の大小はあれ、同じ種類の幼稚な願望です。

この二つを未だに抱え続けている所に、エリザベスの大人になれていない幼児性を見る事が出来ます。

人間は成長するにつれて、物事の限界やバランスを捉え、自身の欲望の付き合い方を覚えていくものです。

しかしエリザベスは、恐らく何も苦労しないまま、右肩上がりに成長するグリーン製薬と共にここまで生きてきたのだと思われます。

苦労もせずに、欲望が全て叶ってきた人生が彼女の様な、幼児性のモンスターを生んだのではないでしょうか。

ついでに私は大人でも幼児性を持つことを否定しているわけではありません。むしろ「形式的な大人という型になるのなんて勘弁だ」という思いを未だに抱えています。←常在思春期

要はそれが自己完結していれば問題ないのであって、幼児性の狂気に多くの人間を巻き込むのが問題だという話です。(何人もの現代の企業家と政治家の顔が思い浮かぶなあ笑)

シナリオAにおける最大の狂気ともいえるヒューム。ラストのあの形態は自分史上一番くらいの衝撃でした。

彼の心を蝕んだもの、それは妻の密通、いわゆるNTR。そしてリンダは自分の子供ではないのではという托卵に類する疑心暗鬼です。

本作は90年代後半の作品ですが、現在が不倫ドラマブームの中にあることを考えると、前項の薬害問題と共に、本作のテーマは非常に現代的です。

「アンはケンの父と密通しているのでは」

「リンダの肌の色が俺と違うのは、俺の子じゃないのでは」

これらの疑心暗鬼がヒュームの心を病み、狂気の螺旋階段に、彼は囚われることになってしまいました。

本作は、「血」「肉」「臓器」「食欲」「性欲」という、社会がおおっぴらにしない「生物の本能」をぶちまけている作品です。

生物は本能の要請として、よりよい遺伝子を求める事が組み込まれているわけで、NTRとは、人類が太古の昔から持つ因子で、歴史の伴走者と言えるかもしれません。

古代でも施政者が密通した妻を殺した事例は沢山あります。そして私は人類がいくら科学的に進歩しようと、この問題が消える気がしません。なぜなら本能の問題だから。

ゴリラの様に、「強さによりボス猿を交代させる」という、ある種NTRを制度化している生物もいますが、人間は安定した社会制度の為、多くの国が一夫一妻制を取っています。

それは非常に合理的で人工的ですが、ゆえに本能とは乖離している部分があるわけで、だからこそNTRは起こり、時に人情沙汰になり、人々は糾弾しつつ、そのニュースに夢中になります。

さてここでヒュームを一つ擁護しておくと、彼の気持ちは分からないでもありません。

それはどういうことかというと端的に「アンは、妖艶が溢れ出していて、エロ過ぎる」という問題です。笑

娘のリンダの活発さからも、ビースチャンは生命力が強く、ゆえに魅力的なのはわかります。しかし物語の冒頭で「ケンちゃんリンダの事をお願いね」というアンの甘ったるい言葉遣いに私は思わず笑ってしまいました。

その上、隣で暮らすケンの父はまさにイケオジ。そんな中オズボーン公園の木に書かれる意味深な二人の名前や、リンダの肌の色を見たら、ヒュームが疑心暗鬼になるのは分からなくもありません。

しかしここであえて私は他人事の様に正論を吐きますが(笑)、ヒュームはとことん考えて自分の中で決着をつけるか、アンとしっかり話し合うかをすべきだったと思います。

疑心や疑念は、自らで抱えれば抱えるほど膨らむもの、ヒュームに必要なのは誰かに悩みを打ち明ける事か、当事者であるアンとしっかりコミュニケーションを取る事です。

シナリオBの物語やオズボーン公園の科学力を見ても、ネオケニアの遺伝子工学も発達してそうですし、話し合いで双方が納得するなら、リンダの遺伝子を検査するという選択だってあります。

しかしそれをヒュームは取らなかった。というより取れなかったのではというのが私の分析です。

ヒュームは明るくて性格も良いマッチョ、表面上は特に人格の問題点は見受けられません。

しかし彼は実に無邪気に、夫婦の当たり前の幸せというものを信じています。

彼の口癖、「愛し合うふたりはいつも一緒」という言葉には、ヒュームが抱える、世間が要請している型にはまった幸せの形と、愛に対する独りよがりな信仰が混ざっています。

世の中には、遠距離恋愛で上手くいっているカップルも多いですし、双方があんまり頻繁に会いたくなく、べたべたしない方が上手くいうパターンもあります。

その意味で、幸せというのは双方の想いの元、その中間点を探るもので、型なんて本来は存在しません。

その意味でヒュームの幸せの形は、彼の中の独りよがりの幸せに過ぎず、ゆえにNTRうんぬんではなく、それ以前の問題で、アンとの仲は上手くいかなくなったのかなとも思います。

ついでに独りよがりというのは、エリザベス、ヒューム、エモリという、シナリオA、Bをカオスに叩き落とした人たちの共通点でもあります。笑

ヒュームは、悪い人間では無いと思いますが、世間の幸せの型や自身の愛のこだわりを信奉するあまり、そこから外れた事、もしくはその可能性、自分がNTR夫なのかもという疑念に耐えられなかったのだと思うのです。

レンジャー部隊で、ばりばりやっていた男としてのプライドも、ヒュームを苦しめたのでしょう。

だからこそ、話合って答えが出る事自体が恐かったのではないでしょうか。

過去の偉人や有名人でも、筋肉を鍛えマッチョイムズに走る人は、どこかしら奥底で心の弱さを抱えている人が多い気がします。ヒュームも明るい性格ながら、どこかしらに繊細な感じがします。

別にNTR夫になる事は恥ずかしい事でもなんでもなく、生物の本能である以上、現代社会だって、寝取られ、寝取り合いの連続で、誰だってどちらの立場になる事もあるのです。(もちろんずっとお互いだけを愛する人もいます)

まずは自分の現実を見つめ、それを認めた上で自分の心が壊れない解決策を出していく。

それが出来ればヒューム一家の未来は明るかったのでしょうが、彼は向き合う事が出来なかった。その弱さをエリザベスに付け込まれたのです。

彼は疑心暗鬼の螺旋の中で、どんどん悪夢の中へ迷い込んでいったのです。

エリザベスが恐れている「老い」

これもまた現代的で、かつ人類の社会の普遍的な悩みです。

一般人のアンチエイジングから、不老不死まで、老いの問題は、あらゆる人間の中に巣くっています。ついでにプーチンと習近平は雑談で不老不死の話をするそうです、恐ろしい話です。

本作のエリザベスは成長や上昇という価値の中に自分を置いている為、衰えていく事が許せなく、ビースチャンの命を吸う怪物になったわけですが、プーチンにしても習近平にしても、利己の権力と欲望の果てが不老不死であるなら、その根本はエリザベスと同じで、ここに欲望は求め続けると際限なく膨らむという、これまた資本主義的な病があります。

一応、エリザベスには若くして死別した夫が忘れられず、その年齢のままでいたかったという、それらしい理由がありますが、冷静に考えれば論外で、「そんなん知るか」の一言。

普通の人はそのようなトラウマを抱えたところで、死体のエキスで薬は作りませんし、その為に人間を殺したりはしません。前の項目で述べたようにエリザベスは欲望を制御出来ない幼稚な人間なのです。

自身に様々な考え方の引き出しがあれば、白くなってきた髪を見て、生きていたら夫もこんな感じだったのかな、と共に人生を歩んでいる感慨に浸ることも出来たでしょうし、それ以外にも、老いを幸せに転化し、自身の心のバランスを取る方法はいくらでもあります。

結局のところ、エリザベスは成長と上昇という意識に捉われ、欲望も制御出来ない、狂気的な子供おばさんに過ぎないのです。(このテーマも非常に現代的です)

本当の大人は、老いを認めた上で、その中から豊かなものを探す人だと思います。その意味で老いを認められない、欲望を制御出来ない弱さがシナリオAの悲劇を生んだのだ、そんなことを思います。

ここらでシナリオAの総括に入りたいと思います。

本ルートの狂気を生んだネク、ヒューム、エリザベスの三者。

ネクの毒親問題に関してはどちらかというとシナリオBに本質があるので、後の項目に譲り、ここでは二大巨頭(笑)のヒュームとエリザベスに絞ります。

二人に共通するのは「独りよがり」と「弱さ」です。

幼児性と独りよがりの欲望の加速の中で、老いに抗う為に人間を食い物にしたエリザベス。

普遍的な幸せと、独りよがりな愛への信仰により、そこから外れた事に動揺し、プライドと疑心暗鬼の中で、狂気に沈んでいったヒューム。

二人とも、自分の現状を直視出来ずに、片方は欲望に邁進し、片方は狂気の螺旋に取り込まれたわけです。ここに二人の弱さがあります。

そしてエリザベスの欲望は当然として、ヒュームの幸せの形も独りよがりです。結果、二人は自分自身しか問いを投げかける人間がおらず、その中で妄執は増していき、シナリオAは行きつくところまでいってしまいました。

ヒュームの「愛し合うふたりはいつも一緒」という口癖。

この言葉は、死別した夫と同じ年齢でいたかったエリザベスにもある意味で当てはまる、まさにシナリオAを体現した言葉です。

相手の事を思えばこそ、いつも一緒である必要はなく、お互いの時間が重なった時に、多くの幸せを作っていけばいい。そもそも幸せは人それぞれです。

その意味で、上記の口癖を独りよがりに突き詰めた結果、現れたのが、自分の腹にアンの上半身を埋め込んだデスピサロのような化け物だったことが、独りよがりの欲望や妄執の醜さを端的に象徴しているな、そんなことを思うのです。

▼あらすじ
箱舟の乗組員になったケンはリンダを迎えに行き、そのまま二人でミナゴにあるリンダの実家に泊まる事にする。
リンダの両親のアンとヒュームは、一度は離婚したものの、数年前によりを戻し仲良く暮らしており、ケンは暖かく迎え入れられる。

しかしその日の夜、ミナゴは謎の怪物に襲われ、アンとヒュームは死亡し、ミナゴの住人もケンとリンダを残し全滅してしまう。

奇跡的に生き残ったケンは、リンダを助けてくれたエモリ博士から、襲われたリンダの四肢は付け根から完全に切断されていた事、繋ぎ合わせたものの左腕だけが見当たらなく、実父で死亡したヒュームの左腕を付けたことを告げられる。

箱舟発進には乗組員であるリンダの左手が必要な為、箱舟の発進も不可能になってしまった。

ケンはリンダに会いに行くも、ケンが来たことを知ると逃走してしまう。エモリの勧めもあり一人娘のサチコと二人で、動物集めをしつつリンダを追う事にするケン。
その後の調査でケンは、ミナゴを襲ったのは指名手配されている「人形使い」という暗殺者の可能性が高い事を知る。

情報を集め、ならず者が跋扈する町で、筋肉隆々な左腕のリンダと再会したケンは、サチコと別れ、リンダと共に、動物集めと人形使いを追うが、人形使いはその間も、様々な事件を起こしていく。

ある時、住民全員が死亡したミナゴで住民がゾンビの様になる騒ぎが発生。
たまたまミナゴに居た所をケンとリンダに助けられたエモリから、ゾンビの原因は寄生虫で、院内感染であり、リンダの体内にもいることが告げられる。エモリは二人にその薬をなんとしても作り上げる事を約束。

その後の調査で、ケン達は、エモリの娘のサチコが実は箱舟のクルーに立候補しており、それに落選していた事を知る。

ケンとリンダは半信半疑のまま、事実を確かめる為にエモリのラボに行く、そこでエモリは寄生虫の薬が無事に完成したことを告げ、唐突にリンダに薬をぶっかける。
直後、エモリは態度を豹変させ、リンダの左腕を切ったのは自分であることを認める。

エモリに詰めよろうとするリンダだが、いきなりお腹を押さえ苦しみ始める。先ほどエモリが投与したのは、寄生虫の成長促進剤だったのだ。
そこにいきなり二人目のサチコが現れる。そして1号と呼ばれる、そのサチコは怪物に変身し二人を救う。

後日、1号から、本当のサチコはクルーに落選後、自殺しており、そのサチコの細胞から作られた複数のデミ・クローンが、自分たちである事が告げられる。

自身の悪行と存在について悩んでいた1号は、その後ケンの実家で母のミームと暮らし始め、そこでスミレという名前をもらう。それを泣いて喜んだスミレは、愛情や様々な感情を暮らしの中で取り戻していく。

その後、エモリを説得する為に、ケンはスミレと共に再びエモリの元に向かう。その途中でスミレから本当のサチコは、自殺後も生きていて、植物状態で眠り続けていることを知らされる。

エモリのラボに着くと、そこにはリンダの花嫁衣裳を着た、サチコのクローンである2号がいた。ケンに対しリンダでなく「サチコでどうだ」と問うエモリ、箱舟の乗組員のパートナーにすべく、2号にはリンダの左腕が付けられていた。

ケンがそれを断ると、エモリは2号を自爆させ全てを始末しようとする。
しかし死を拒否したスミレと2号は逃走。エモリも恨み言を残し姿を消す。

ケンが自宅に戻ると、そこにはヨシコと名付けられた2号とスミレがいた。ミームは1号と2号、両方に名前を付け、慈しむように二人に接する。

その後、病院で治療中のリンダが何者かにさらわれたという情報が入るが、連れ去ったのはスミレとヨシコだった。エモリが何かをしでかす前に、意表を突き、先手でリンダを連れ出し、手術して左腕を返そうという狙いの上での行動だったのだ。

無事に手術が成功し、腕が元に戻ったリンダだったが、二人の前にエモリが再び立ちふさがり、サチコの恨みを晴らす為に自らの手でケン達を八つ裂きにすると宣言。

リンダが「逆恨みだ」とエモリを糾弾するが、「逆恨みのどこが悪い」と開き直ったエモリは、寄生虫の成長促進剤を浴び、おぞましい怪物に変化し襲い掛かってくる。

エモリを退けた二人だったが、爆弾により出口を塞がれてしまい窮地に陥る。

そこにかけつけたスミレとヨシコの力で、ケンとリンダはなんとか脱出するが、スミレが自爆を選びエモリは建物と共に崩れ落ちる。

その後、ホスピコの病院で本当のサチコが意識を取り戻したという知らせを聞き、会いに行くケンとリンダだったが、実は本当のサチコも飛び降り自殺の後、植物状態のまま亡くなっており、くじ引きで本物を演じる役を決めた事を告げられる。

彼女もまたクローンだったのだ。ケンはスミレ、ヨシコを含めた3人分のキスを受け止めサチコと別れる。

その後ケンとリンダは動物集めを完了し、箱舟へ向かうが、箱舟を起動しようとする二人の前に、怪物姿のエモリが再び現れる。妄執の力で二人に襲い掛かってこようとするエモリ。

そこにヨシコが現れ、エモリを抱え箱舟から転落しそのまま自爆する。箱舟の外の黒炭のようになった遺体をしばし眺めた後、二人は箱舟を発進させる。

シナリオBはAの時とは違い、混沌化させた人間の責任をたった一人に帰する事が出来ます。それがエモリ博士その人です。

とはいえ彼が狂気の道を突き進んだ、スタートの部分には同情を禁じ得ない部分もあります。

心臓に重病を抱えた娘のサチコを救う為、テロリストに研究データを与えた事。

これが彼の指名手配犯人生のきっかけなわけですが、恐らく冷たかったであろう行政の対応、また人々の為の研究をしているのに、それに見合った対価が無く、娘の医療費も払えないという産業構造や医療従事者への報酬の問題など、社会側の問題点がこのエピソードの奥に隠れてるのは事実です。

そして、その時期にエモリは最愛の妻を亡くしているわけで、ここでの心理的な負荷が大きかったことは間違いありません。

その意味でエモリという人間を作った最初の原因は間違いなく社会や不条理にあるのですが、それだけでないだろうことが、シナリオBをよりカオスへと導いています。すなわち本人の資質や思考方法の問題です。

エモリが涙ながらに語る口癖に

「私は、いつも最善を尽くしてきたし、出来る事は全てやった。なのに決まってそれが裏目に出る」

という様な、一度プレイした人間なら記憶から離れない言葉があります。笑

エモリという屈折的なキャラクターを端的に表現している、非常に素晴らしいセリフです。

さて、まずシナリオBの重要要素のクローンについて考えていきましょう。

この点が難しいのが、エモリがサチコのクローンをいつ作ったのかの時系列がいまいちぼんやりしている事です。

スミレからは本物のサチコの自殺後だと語られますが、だとしたら人形使いとして指名手配されて重ねた多くの犯行は、サチコのクローンでない別のクローンを使ったのでしょうか。それともサチコの自殺前から、クローンのデザインはサチコだったのか・・・

とはいえここをあまり深く考えても意味はないので、その行為の象徴している事や意義について考えていきます。

まず連邦に指名手配されたからといって、クローンを作り怪物化させようという思考回路に一般的にはなりません。

自らに手を差し伸べなかった社会に復讐してやろうという思考なのは、エモリの人間性から理解出来ますし、妻の死もその恨みを加速させたでしょう。

とはいえその度を越えたテロをも含んだ復讐が、娘のサチコの精神が病む原因を作っており、この段階で思考法・解決法が実に極端で独りよがりです。

その後の娘の自殺に、とてつもないショックと心労を受けた事も理解は出来ます。

しかしその娘に似た二体のクローンを作るのは理解出来ませんし、実の娘のように慈しむならまだしも、怪物に改造し、その体内に自爆装置を埋め込み、番号で呼ぶという所業。

正直な話、一般的な思考では、エモリの行動は理解出来ません。

しかしこのエモリの飛躍的な思考にこそシナリオBを解き明かす鍵があるように思います。

エモリの口癖は、「裏目に出る」という言葉で締めくくられます。

彼の行動とこの言葉から見るに、無意識にというか意識の中で強烈に、社会で何をやっても最終的には上手くいくはずがないという、冷笑的な思考がインストールされているように思います。

そしてその前提の上にエモリは、明後日の方向に努力の積み木を積み上げていき、案の定、というか想定以上にめちゃくちゃな結果を生んでしまう。

これこそが彼の思考・行動原理の核であり、それどころかエモリは最終的にうまくいかなくてめちゃくちゃになる事に、ある種の快感すら抱いているのではないか、私はそのように思うのです。

冷笑的であり、自分も含め、周りがめちゃくちゃになっていく過程全てに快楽を感じる人間。それが私のエモリの分析で、端的に言うと変態です。

シナリオAの人々と同様に、というよりそれ以上に上記の行動は独りよがりであり、そこから見るに、生前の妻の気持ちやサチコの気持ちを、考慮出来ていたとは私は思えません。

もしかしたら指名手配される前、妻が死ぬ前は普通だったのかもしれませんし、彼の思考法が先天的なものなのか、後天的なトラウマによるものなのかは分かりません。

しかしそれがいつだったとして、娘のクローンに対し番号で名前を付け、怪物に改造する人間が最低なのは間違いありません。

それらを踏まえると、彼の中の「最善を尽くす」というのは、人の気持ちを考慮しない、極端に独りよがりで、破滅的な快楽運動です。

それは、シナリオAでエリザベスが自分の欲望の為に、ネクに死体探しさせていた事と、本質的に同じであり、自身の快楽の為に子供を利用する、これ以上無いほどの毒親的行動です。

エモリはとどのつまり、変態狂気を持つ毒親であり、生前のサチコはこんな人の所に生まれて本当に不運でした。サチコは指名手配の逃亡生活に疲れたのもあると思いますが、エモリという狂気的な人しか身近に居なかった事も確実に自殺の原因になっている気がします。

もしかしたらサチコが自殺する前まではここまでひどくなかった可能性もありますが、人形使いの犯行の残虐さや規模から考えると、極端で独りよがりな思考は、大分前に確立されていたのではないか、そんなことを思います。

スコセッシ監督の有名映画に「タクシードライバー」という作品があります。

これは一人暮らしの男が性欲とプライド、政治的使命と陰謀論をこじらせ狂気に走っていく物語で、自宅のガスバーナーの火の上に修行の様に手をかざす姿が、その狂気をあらわしており、とても印象に残ってます。

私はエモリという人間にこのタクシードライバー的精神を見ました。

上手くいかない事を前提に、自分一人の歪んだ思考と無意識の性欲で物事を組み立て、おぞましい現実を作り上げていく。

前項で書いたように、エモリの中には破滅すら快楽として根付いている節があるので、彼の行動には恐れが無く制限を感じませんし、しぶとさは無尽蔵です。

現代社会で全てがどうでもよくなり、社会に対し壊滅的な迷惑を与える「無敵の人」というのが問題になっていますが、エモリもそれに該当するように思います。

事実エモリは指名手配されているテロリストであり、社会に対する強烈な恨みが根付いており、それゆえ自分の責任・運、本当に対象の人間が悪いのかという整合性は、簡単に無視されます。

この思考回路が、あの名言「逆恨みの何が悪い」という言葉に繋がるのです。

彼の中で社会こそが周りこそが悪いのだから、逆恨みこそ正当なのです。

そのような開き直りの精神が根本にあり、だからこそ人形使いという無敵の人は、とんでもない数の犠牲者を出し続けても平気だったのでしょう。悪いのは社会、自分は正当。

もしかしたら、劇中の異常な粘り強さから考えると、その逆恨み自体にも彼は快楽を感じている可能性すらあります。

人間は快楽の為にこそ必死になります。曲がった使命感と快楽をごちゃまぜにした無敵の人、それがエモリという人間の一面ではないでしょうか。

シナリオBにおいてミナゴで襲撃されたリンダは、四肢が根本からバラバラの状態にされた状態で発見されます。

それはエモリが繋ぎ合わせたわけですが、箱舟起動に必要な左腕はクローンに移植しているので、リンダの左腕には隆々しい父であるヒュームの左腕が移植される事になります。

その意味でシナリオBは冒頭の段階から、四肢欠損性愛、人形偏愛症、球体関節人形的な、アブノーマルで変態的な性欲描写に満ち満ちているのです。(性癖も変態も人に迷惑をかけなければ自由です。アブノーマルは個性!)

四肢をバラバラにさせた上で、自分で繋ぎ合わせるエモリは、明らかにリンダの人体を人形の様に捉えていますし、サチコのクローンの扱いから見ても、そこに無意識にしろ、性的な欲求の発露が見られます。

人間には異性を物として扱いたい、思い通りにしたいという欲求があり、それは性欲と密接に結びついています。

異性をロープで縛って興奮するのも、人を物として扱う優越感・背徳感の顕現とも捉える事が出来ます。

またクローンを怪物に改造するのも、望むように変形させたい、汚したい、おぞましいものが見たいという、性的欲求に連なる要素を感じ取れます。

そもそも怪物状態も含め、形態変化をAモード、Bモード、Cモードと名付けている事も非常に性的です。(これはブラックジョーク的側面も大いにあると思います、シナリオもAからC笑)

エモリは終始、クローンを壊れてもいい人形としてしか扱っていませんが、極めつけはあの有名な「サチコでどうだ」のシーンです。

クローンの体をべたべた触り、リンダの左腕が付いてくる事を力説、そのままショーツをめくり、素足のきめの細かさを語り、両足の中から顔を出し、「サチコでどうだ」を連呼するエモリ。もはやあっぱれです笑

もはや彼はクローンを人形どころか、ダッチワイフとしか捉えていない、私はそのように感じました。

エモリという人間の行動様式に、子供を自分の所有物の様に扱う毒親の精神が宿っています。ここまでは非常に不幸な事ですが、現代の親にもよくある事例です。

しかし問題なのは、娘を異性を人間を、人形の様に扱いたい、汚したいという様な変態性欲がそこに絡みついている事です。

自分の血を分けた存在だから、作り出した存在だから何をしてもいいんだという毒親の精神に、望むように改造したい、壊したい、汚したいという変態性が無意識に重なり合っている狂人、それがエモリなのです。

そこにあるのは独りよがりで歪んだ欲望と使命感であり、彼の中に娘の気持ちがあるとは思えないし、もし娘への愛情だと彼が思っているものがあるとしても、それは歪んでねじまがった、一皮むけばそこに自分しかいない悲惨なものだと思います。

娘のクローンに対し変態的な行動を取る人間が、本当の娘の気持ちを感じ取れたとは到底思えません。

私は箱舟の乗組員への立候補はサチコの限界状態での、最後の、エモリを含んだ現状からの脱出の試みだったのだと思いますが、彼では追い詰められている娘の気持ちに寄り添う事は出来なかったでしょう。

とどのつまり、本当のサチコですら、エモリは少し愛着のある人形としか見てなかったのではと思うのです。

その意味で彼はあくまで親ではなく、変態な人形使いでしかないのだと私は思います。

シナリオBに関して、サチコのクローンたちはエモリのせいで、過酷な人生を強いられています。

「一体どこがハッピーチャイルドなんだ!!」

上記は私のプレイ中の心の声ですが笑、しかし本作や本ルートにおいて、明確な救いの存在・思想があります。それがケンの母であるミームです。

これは後の項目で詳しく語りますが、本作の本質は「人間は愚かなものだ。しかしだからこそ尊い」というもので、非常に肯定的なものです。その意味ではエモリだって、エリザベスだって肯定の枠には入ります。

しかしその枠の中にもピンからキリまであり笑、言うなればそのピンの方、エモリの様な変態毒親ではなく、地面に根付いた価値観の元で、美味しい物を食べ、周りと笑い合い、慈愛を軸に楽しく生活しているのがミームです。

彼女の頭には「心」と書かれたバンダナが結ばれていますが、自分自身や相手の心を第一に考え、慈しむ事こそ、調和を生み、独りよがりじゃない幸せを生む。そういう思想がミームには当然の様に根付いています。

そもそもシナリオAにおいて(どのシナリオでも)、エリザベスに引き取られたネクが悲惨な状況に叩きこまれ歪んでしまったのに対し、ミームに引き取られたケンは優しい青年に育っています。

その意味でシナリオAの毒親・エリザベスの対置の価値観も、ミームが担っていると言えます。

傷心の1号と2号に、スミレとヨシコと名前を付けたのは非常に象徴的で、ここに人形として番号としてしか扱わないエモリと、人間として慈しむミームの価値観の対比があります。

ミームは二人を人形でなく人間として扱っているのです。

ここにシナリオBを中心に展開された毒親問題に対する解決や救いの核心があります。

スミレの「私はいったい誰なの!?」という叫び。

この叫びは彼女の叫びだけでなく、現代の毒親に苦しむ全ての子たちの中にある叫びなのではないか、私はそのように思うのです。

親が自分の期待や願望を子に背負わせ、まるで自分の分身や願望を実現する道具の為に扱う。

それが最初においては子供の幸せを願っての事だとしても、いつからか自分と子供の幸せを同一視するようになり、いつの間にか、子供は自分の意志・存在が分からない、親の人形のようになってしまう。

こうやって書いていくと、驚くほど、シナリオBの物語が当てはまります。

その意味でミームが彼女たちにしたのは、二人を意志や存在・願望を持つ人間として扱い、魂を復活させたことだと思います。

私は魂とは自身の肉体・思想・人格から滲み出て構成される、人体や器官とは高次元の、見えないけども、存在に確かに宿るものだと考えています。(私個人の思想です。すいません)

ミームは作り手(つまり親の象徴)に人形としてしか扱われず、浮遊していた存在に魂を吹き込み、二人を大地に定着させたのです。

その意味でスミレとヨシコはミームと暮らした期間は、確実にハッピーチャイルドだったと思うのです。それがシナリオBのわずかな、しかし確かな救いだと思います。

独りよがりで、相手がいない執着や欲望には魂が宿らず、いずれその人生や人体は悲惨な結末を迎える。そう考えた時、ヒューム、エリザベス、エモリら独りよがりな欲望の求道者たち全員がそのような結末になったのは妥当だな、そんなことを思います。

ここまでエモリの持つ変態性や毒親問題を中心に書いてきましたが、やはり私はシナリオBの問題は、エモリの口癖のあの言葉に端的に現れていると思います。

「私は、いつも最善を尽くしてきたし、出来る事は全てやった。なのに決まってそれが裏目に出る」

この言葉が、冷笑や破滅、快楽を含むという分析は、既に書いているので、ここではエモリの精神から少し離れ、「最善を尽くす」という思想と強迫観念について考えていきたいと思います。

この言葉を現代社会でも信奉している人は多いです。そして努力するという事は素晴らしい事だと思いますし、それを否定する気持ちはありません。

しかし最善を尽くすという言葉の中には、「最善を尽くさなくてはいけない」という強迫観念、それをしない人間はダメで救われる資格が無いというような、自己責任の論理が見え隠れするような気がするのです。

もちろん生きる事のある程度は自己責任だし、自分で意思決定しなければ物事は進みません。しかしその思想を突き詰めていくと、「努力しないと落ちこぼれになってしまう」「自分は社会のまともな位置にいかないといけない」と言うような考え方になり、自然に落伍者としての他者が意識に刷り込まれていくことになります。

そうなると本作のように徐々に、自分だけの利益や欲望に邁進するモンスターを生む事になると思うのです。

だからこそ人間は自己責任とか弱肉強食と開き直ることはせずに、その上にある普遍的な愛や幸せ、利他、助け合いの精神を説く必要があるのではないでしょうか。

その意味で、もし「最善を尽くす」という言葉に、妄執や欲望、つまり自分しかいないなら、そもそも最善なんて尽くす必要は無いのではと思うのです。

突き詰めた成功や欲望はどこかで必ず他者を蝕んでいます。であるなら目指すべきは、他者や周囲とのコミュニケーションやバランス感覚による着地点です。

それをミームの価値観で自分なりに言語化するなら

「美味しいご飯を食って、寝て、やりがいがある事を楽しくやる」

という事でしょうか。人間なんてこれが出来てればいいんじゃないか、そんな事を思います。

最後に、シナリオBラストで、箱舟のエモリの回想で出てきた本当のサチコについて書きたいと思います。

彼女はエモリの口癖を使い、「最善を尽くすんじゃなかったの?」とエモリを叱咤します。このシーンを見ると、エモリの思想や価値観を本当のサチコは後押ししていたような印象を受けます。

これに関する本当の所は分かりませんが、彼女の口ぶりから「最善」の価値観が彼女スタートのものでは無くエモリスタートであることは推察出来ます。

もしサチコが本当に最善の価値観を信奉しているなら、エモリの破滅的で倒錯的な行動や価値観に、引きずられてしまった、そのように見る事も出来そうです。ここでもエモリは毒親を発揮している可能性があります。

しかし私は実の所、あの本当のサチコに関しては、エモリの狂気が都合良く作り上げた妄想ではないかと思っています。

結局のところ、本当のサチコとも双方向のコミュニケーションはなく、エモリ自身の中に、自分に都合の良い人形としての妄想の彼女が居ただけではないのか、そんなことを思うのです。

▼あらすじ
リンダが箱舟の乗組員に選ばれた事を知り、ケンも箱舟の乗組員になるが、直後バナナの皮を踏んで滑って転び、1年間意識不明になってしまう。

1年後目覚めると、リンダはレンジャー隊の隊員になっており、二人はケンが寝ている間にいつの間にか結婚していた。

歩けるようになったケンを、弟のネクがお見舞いにかけつける。ネクはケンとリンダに好きな人が出来たと言い、その人はサチコという名前だと告げる。

そんなわけで、ケンとリンダの動物集めが1年遅れでようやく始まる。

二人は様々な人と関わり、依頼をこなしながら順調に、動物を集めていく。ネクとサチコもお互いの想いを確認し無事に両想いになる。

ある時、ネクから呼び出された二人は、サチコが誘拐された事を聞く、ケガで動けないネクの代わりに受渡役をケンが変わりサチコを助けに行く事に。

詳しい話を聞く為にエモリを訪ねると、犯人はかつてエモリのライバルだった科学者で「人形使い」と呼ばれる指名手配犯らしい。

受渡場所に行くケンとリンダだが、犯人に逃げられそうになってしまう。しかしそこに心配で病院を抜け出してきたネクが現れて犯人を捕まえ、サチコを助ける。

これにより二人の結婚を認めていなかったエモリも二人の結婚を認め、ケンとリンダはミナゴで行われるネクとサチコの結婚式に参加する。

その最中、教会の井戸から偶然、地下世界の入り口を見つけた二人は、その奥地の遺跡でアナビスという存在と出会う。

それは惑星の最高管理者の様な存在なのだが、なんとアナビスはケンの義理の父・ジーンだった。

不治の病に侵されたジーンは、ビースチャンの伝説を頼りに地下世界に辿り着いたのだが、そこで力尽き、そのまま管理システムが本物の主とジーンを間違え、アナビスと一体化してしまったらしい。

箱舟も石板もまたジーンが送ったもので、聖書のまねをして文面を考えたらしい。しかし当のジーンにもなぜ箱舟を送ったのかはよく分からない模様。

また遺跡の中には、ケンたちの箱舟と瓜二つな箱舟が幾つも並んでいた。

その後、動物を集め終わったケンとリンダは、箱舟を発進させる。

死神がネオケニアに衝突する中、箱舟は悠久の時を超える。
しばらく後、意識を取り戻すと二人の前には復活したネオケニアがあった。
そこで死神に削り取られた地殻が集まり月になったのを見た時、二人は復活したネオケニアこそが、座標が失われた地球である事を知る。

その後多くの動物を引き連れ、その星に降り立ったケンとリンダは多くの子供を残し、その子孫は逞しく生き続けるのであった。

シナリオCでは、AやBの時の諸問題や環境が解決されていて、妄執と狂気の人物たち(笑)が、健やかで平和な日々を過ごしています。

これだけ聞くと、とても素晴らしい事のように思えますが、ここまで猟奇的なシナリオに浸かっていたプレイヤーからすると、それが異常なほど不穏であり、違和感が付きまとい、全く落ち着かないのです。

そしてゲームデザイナーの方が実に上手く、前のシナリオの「愛し合うふたりはいつも一緒」という名言や、各人物の行動を、ブラックジョークを交え反転させるので、こちらはにやにやしつつも、「シナリオCって悪い夢なんじゃないか」というアンビバレンツな感情を抱える事になるという、唯一無二の体験が待っています。

私の知る限り、このような訳の分からない感情を想起させるゲームは本作以外知らないので、この感覚を味わう為だけにこのゲームをやってもいいくらいです。新しい感覚の創出は創作物が持つ意義の中で、一番高次なもののように思います。

その上、シナリオCの後半部では、地下エデンというネオケニアの地下に広がる広大な大地で、惑星や箱舟の謎について迫っていく事になります。

こんなわけの分からない感情の中、本作の生命哲学に触れ、それが実に恩寵的で骨太である。

ゆえに「このゲーム、マジすげえ」となるのが、シナリオCであり、本作の最終ルートであるゆえんです。

以下からは物語全体の本質的な考察に移ります。

本作が発売された90年代の後半というのは、ノストラダムスの予言や、2000年問題などなど、「世紀末」という独特の空気感に揺れていました。

私自身も子供でしたが、ぼんやり「世界って滅びるのかも」と思ってましたし、友だちともそんな話をしていました。

その様な感覚は日本全体にも影響し、覚醒剤やシンナーなどのドラッグや、援助交際、ガングロやブルセラなど、非常にやけくそで極端な、退廃的な文化が覆っていて、不思議なサイコ感、エロ・グロ感というのが、この時代にはあったのを体感として覚えています。

恐らくその感覚は本作にも影響していますし、「serial experiments lain」や「ペルソナ2」などカルト的で、どこか似た雰囲気を持つ名作が多く出たのもこの時期です。

本作のゲームデザイナーさんは、直前まで王道のRPGを作っていて、その時の窮屈さとストレスの反動から、本作を作ったのだと言っています。

エロ・グロの空気が漂う日本で、そこに「やってしまえ」という反骨精神が乗った時、本作のような唯一無二の形容しがたい名作が生まれたのだと思います。

本作のジャケットは箱舟認証時のケンとリンダの手形ですが、真っ赤な背景に白い手形が浮かぶデザインは猟奇的で、最初から血と骨を連想させます。

そしてゲームが始まれば、人は死にますし、血も流出し、動物たちを肉にして食べます。ケンとリンダの野営後には二人がセックスをした事を示す、細かい演出もあったりします。

また集める動物のデザインは、グロデスク(私は嫌いじゃない)で、過剰に生命観をデフォルメしている感があります。

そして最終的に発進させる箱舟は、人間の臓器を剥き出しにしたような中身になっています。

私はこれらの描写から

「生物なんて一皮剥けばグロテスク。人間はお高くとまってないで、それを直視しろ!」

というメッセージを感じ取りました。

描写のエッジが増し増しなのは、前項でも述べた「やってまえ精神」の影響も多分にあると思いますが、本作のグロテスクなもの、もっと普遍的に言うなら、本能を直視せよという感覚はゲーム全体に溢れています。

そもそも自分の中にあり、体を動かしてくれてる臓器をなぜグロいと思ってしまうのか?

私は、これは人間の生存本能の「食べる」という行為に潜む罪悪感から目を背けたいからなのかなと考えています。

我々は基本的に動物の肉を食べ、体内に取り入れそれをエネルギーに変換して生きています。

ゆえに剥き出しの血や内臓を見た時に、太古から続く他の動物を殺してきた記憶が想起され、そこから忌避したいという感覚が働くのかなと思うのです。つまり、自分が動物を殺し、それを食べ生きている事を目の前に突き付けられるという事です。

「殺し、食べ、生きる」

これが生命の基本であり、本能に組み込まれています。

しかし人間のように複雑な感情や欲求がある生き物が、社会の秩序を維持しようとする場合、ありのままの本能だけではホッブズの言うような自然状態(基本的にありのままだと人間は闘争状態になる)になる為、人間は美や善、徳というようなものを徐々に備えていったのかなと思います。

ゆえに、その美や徳が覆い隠そうとしている、血や生肉や内臓をグロテスクと思うのではないでしょうか。

とはいえいくら私たちが綺麗に取り繕おうと、本能は無くなりません。

だからこそ私たちは反転するように、グロテスクな殺人ミステリーに興奮したり、そういう過剰な描写に惹かれてしまうのかもしれません。

そもそも性器が男性器、女性器共にグロテスクなのも、そこに本能が凝縮されているからで、だから私たちは夢中でセックスをし、遺伝子を繋げてこれたのかも、そんなことを思います。

私は本作の本質を、徹底的な生命哲学の発露だと考えています。そこに「やってまえ精神」が乗っかった事により、異様なオーラと過剰さを持つ怪作が誕生したのではないでしょうか。

本作の舞台となるネオケニア。その名称からしてホモ・サピエンスが誕生したとされるアフリカをモチーフにしている事は明白の様に思います。

前項の本能に帰れというメッセージ性を考えても、多種多様な動物たちが跋扈する地をモチーフにすることは適切な選択だと思いますし、箱舟発進という聖書のノアの箱舟のイメージと、人類がアフリカを出て広がっていく、出アフリカのイメージも重なります。

そしてそんなネオケニアに住む、リンダやアンなどの先住民の血を引くビースチャン。本能や生存力が強く、その名称にはビースト(動物)が組み込まれています。

その意味でネオケニアやビースチャンは、生存本能の原初性を端的に現わしています。

本作のエンディングでは、死神がネオケニアにぶつかり、その欠片が月になる事。そして悠久の時を過ぎた後にネオケニアが地球として再生されることが描かれます。

これらが象徴する事を、ネオケニア(生存本能)、死神(破壊、死)、月(夜、性欲)、動物採集(本能の復活)、箱舟(本能の脱出と伝達)と考えてみます。

これらを繋げると

「生存本能が減退した時に、生物に死と破壊が訪れる。しかしそれらの本能や遺伝子は、次の生物に受け継がれ、生存本能に溢れた若い世代が生まれてくる」

というような感じに捉える事も出来ると思います。

その意味で私は、本作の

「グロテスクで生命感溢れる動物を集める事」→「それらを乗せて箱舟を発進させる事」→「エンディングの地球復活」

の一連の流れは「生存本能を再活性化させる為の、地球の再起動」の話ではないかと思うのです。

エンディングのループ構造的な演出から見ても、先住民のビースチャンはケンとリンダが集めた様々な動物の遺伝子を受け継いだ、生存本能に溢れた種族という解釈が成り立ちます。

その血やエネルギーが薄まってきた時、生存本能の再起動の物語がスタートする。これがリンダキューブの物語が奥に持つ構造で、覇気が無いように思われるここ数十年の日本に「もっと生存本能全開で行こうぜ」というメッセージも秘めているのかな、そんなことを思います。

地下エデンで、ケンとリンダはネオケニアの全てを総括・管理しているアナビスと一体化しているジーンと出会います。

瀕死のジーンがビースチャンの伝説を元に探り当て、息絶えたものの、そこの管理システムがそこの主と誤認し、ジーンは惑星の管理者の様な存在になっていた、そういうわけです。

この元々の管理者が誰だったのかは詳しくは語られません。ループ構造からするとケンとリンダか、その遺伝子を継ぐ何者かという可能性がありますが、そこは個人的にあまり重要ではないと思うので、ここでは言及しません。

重要なのは、惑星の管理者。つまりこれはネオケニアにおける「神」のような存在だと思いますが、それに一般人であるジーンがなっているという事実だと思います。

これには「お父ちゃんが神様でした」という、意表を突く狙いもあったと思いますが、私はここにどんな人間も神たりうるという哲学を感じました。

この後の箱舟の項目でも詳しく書きますが、私は本作の本質的なテーマは、生命の循環にこそ神は宿るという、生命哲学だと考えています。

ジーンに探求心がありその素養があったのは事実だと思いますが、地下エデンのアナビスを探り当てる力がある人間なら、管理システムはジーン以外でも神に選んだのではないかとも思います。

ネオケニアに箱舟の石板を飛ばしたジーンが、自分がなぜそれをしたかを正確には分からない事はそれの証左ではないでしょうか。

これは管理者=神の意識には、生命の循環への使命が刷り込まれており、逆に言えばその循環にこそ神は宿る為で、ジーンもまたその循環を実現する歯車の一つなのではということです。

別にジーンじゃなくてもその循環を実現するなら誰でもよく、循環の実現の方が主目的なのではないか、それが私の解釈です。

その意味で我々の存在こそが、生命の循環の証拠であり、全員がその使命を帯びている。そう言う風に捉えることも出来ると思います。我々全員の中に神は宿っており、その資格があるのではないでしょうか。

それに加え、本作の悲惨で業に取りつかれたエピソードや、ブラックジョーク全開のシナリオから考えるに、全員が神であるという事は、愚かでもあり情けない要素もまた神に含まれるということです。

詳しくは最後の項目で書きますが、本作は「神だってこんなもんだぜ」という事を同時に言っているような気がします。

ジーンという軽い神様はそれを端的に現わしているのではないでしょうか。

ケンとリンダが発進させようとしている箱舟ですが、地下エデンにも同じものが沢山ありました。

これは何度も二人が箱舟計画を繰り返しているループ構造の示唆であり、箱舟内のロボットも箱舟計画が何度も行われている事に言及しています。

そうなるとシナリオA・Bもその繰り返しの中の一つで、ネオケニアの地球への再生も繰り返している、そういう事になります。

この点における細かい事実については個人的にどうでもよく、私はこの事象が何を表しているのかを考えたいと思います。

その思考を助ける材料の一つ目は、箱舟の内部が人間の臓器のようになっている事です。

そして第二は、そこに様々な個性を持つ動物を積み込むという事。そしてそれらの性質が合わさりビースチャンという未来の先住民の遺伝子が作られるという事。

第三は、滅びるネオケニア自体が、長い年月で地球として再生され、そこに遺伝子を運んだ箱舟が着陸する事です。

私はこれら全てが、人体の細胞の循環に似ていると思います。

我々の細胞は毎日3000億ものが死に、そしてそれと同数の細胞が生み出されて循環していきます。その意味で細胞は私たちを循環させる箱舟です。

我々は日々、循環し生まれ変わりながら生命を満喫しています。

そして歴史という観点から見ても、私たちがセックスをし生み出した新しい細胞の集合体が、新たな人間となり、文明を紡ぎ、歴史を進めていきます。こうしてみると人間そのものが箱舟という捉え方も出来そうです。

本作のデザインや描写に、血や剥き出しの内臓などが多い事から考えても、本作は人体こそ生命こそが時を繋ぐ・繰り返していく箱舟である、その様な本質的なメッセージを私たちに伝えようとしている、その様に思うのです。

本作の軸にはそのような骨太な生命哲学があるのではないでしょうか。

前項の内容を踏まえて言うならば、本作のシナリオAからCは、人体・生命が織りなす、箱舟という営みのエピソードの一つです。

それならばそのエピソード群が表すことが、本作の本質に直結しているはず。

そして実はそれは劇中で、言葉としてしっかりセリフで語られていたりします。

それは地下エデンのアナビスにいるロボットが言うセリフです。

「アナタタチハ、アキラメガ悪ク ウソツキデ 淫乱デ 物忘レガ激シイ 同ジ失敗ヲ繰リ返シ、反省モシナイ・・・」
「私タチニハ ソノ性質ガ ウラヤマシイ ナゼナラ ソレコソガ・・・」
「神ノ子ノ 証明ナノダカラ」

この言葉にこそ、本作の本質が凝縮されています。

本作のシナリオCでは、AやBの時に、狂気と妄執に取りつかれた人間が、環境や状況の変化により、ありえないくらい穏やかな人間になっており、拍子抜け。むしろそれが不気味ですらありました。

しかし人間というのは、実はこんなもんだったりするのです。

自分の性格や意志が強固だと若い時の私は考えていましたが笑、そんなことは全然なく、環境の変化、関わる人間の違い、それが細かいものでもなんでも、それにより驚くほど人間は変わるものなのです。

いくら自分の信念に誇りを持っていても、それは外部の影響や環境に存分に左右されるものであり、また立場によるポジションも思考に影響を与えます。

人間というのは、実のところ、かなり適当なのです。しかしだからこそ柔軟性があり、しなやかで強い。

本作ではケンとリンダは主役なので、どのルートでも、善なる立ち位置にいましたが、もし環境が違えばケンが人形使いみたいな変態になる事もありえただろうし、エモリとエリザベスが協力して人類の為に箱舟を発進させる状況もありえたかもしれません←ちょっとそれ見たいかも

さて本作でそれに加え重要なのは、シナリオAやBのような猟奇的なルートでも、最終的に箱舟はしっかり発進するということです。

何が起ころうと、人類の循環の営みは続く。

つまりこれは猟奇的で変態的な出来事さえも、人類の営みの、愚かだけど愛しい一事例として肯定されているという事だと思います。

ヒュームの狂気やエモリの変態性は、愚かであると同時に、そこに多様性や複雑な感情も秘められています。様々な個性や遺伝子を持つ動物を集める本作のゲームの根幹と、それらに親和性を見出す事も出来そうです。

少数派の心の痛みや複雑な感情に寄り添い、それを全体へと還元し、より寛容で普遍的な存在へ導く事が、私は文学の本質の一つだと考えていますが、その意味で本作は非常に文学的な作品です。

全ては多様性の一部に吸収され、相互理解を深めながら、生命の営みは続く。

だからこそ、ケンとリンダは猟奇的で悲惨な出来事をその身や心に受けながらも、最後は前を向き箱舟を発進させるのだと思います。

本作は集める動物もグロく、血や内臓、肉の描写も多く、性的な場面や悲惨な展開も確かに多いです。

しかし最終的に、それは生命哲学の循環に回収されるという、実に奥が深い構造になっています。

これを自分なりの言葉で言い換えるなら

「人間は殺すし寝取るし欲望に弱い、一皮むけばグロテスクな本能を抱えている。しかしだからこそ、感情や理性は複雑に進化していく」

このような感じになるかなと思います。

つまるところ、本作は欲望や憎しみ、愛情などあらゆるものを全肯定している、究極の生命賛歌なのです。

劇中においてついついグロや悲しい方に目が向きますが、ミームの哲学や、ケンとリンダの関係、愉快なシナリオCなど、慈愛や笑い、恩寵についてもしっかり描かれている事も本作のポイントでしょう。猟奇的なシナリオAやBも音楽も含め、どこかしら軽妙です。

さてこの項目のタイトルである「血愚神礼讃」ですがこれは、中世の学者エラスムスの著作「痴愚神礼讃」をもじった私のオリジナルワードです。

エラスムスは中世の著名な人文主義者であり、聖書の研究や、キリスト教的な著作を書き、名声を得ていたのですが、ある時、友人のトマス・モアに向けて、ブラックジョーク全開で、当時の教会や神学者の事を風刺した、エッジの効いた作品をぱぱっと書き上げます。

それが痴愚神礼讃です。

その内容は、痴愚の女神を主役におき、その女神が当時の人間社会の文化やそれに携わる人間、聖職者、権威者がいかに愚かであるかをこきおろし、それゆえに痴愚の女神である自分をほめたたえ、痴愚である事こそ幸せだと、説き伏せ、語りかけるという内容なのですが、本作の本質はこれと非常に近いところにあると思います。書かれた経緯もどことなく本作と似たような感じです。

ついでに「痴」の部分を「血」に変えたのは、本作のデザインのモチーフに赤が多用されているのもありますし、内容が肉体や本能を表現している事、また猟奇的で劇中で血が沢山流れる事などを踏まえたからです。

本作は、過剰なグロ、そして性的な描写、悲劇と血、それらを描いた上で、最終的に生命哲学の循環を描写します。愚かで欲望に弱く悲劇を生むこともある、しかしそれでも、それだからこそ人間は素晴らしい。

これこそ私が本作を「血愚神礼讃」の物語だと思うゆえんです。

我々人間は、殺し血を流し肉を食べ、そして誰かを愛し、セックスして生命を紡いでいく。それをブラックジョークと猟奇的な演出で唯一無二のエンタメ性でまとめあげている大人なゲーム。それが本作なのだと思います。

令和という時代は、大人しさ行儀の良さと、極端さ過剰さの二つの中で揺れ動く、激動の時代になると私は感じています。

そんな時代だからこそ、本作の様な、あらゆる感情を刺激し、その中に生命の本質を込めている作品こそが重要だと思うのです。

またそんなに難しく考えずに、「やばそうで面白そうなゲームやりてえ」的なテンションでプレイしても確実に満足出来る一作です。

この考察を読んでいるほとんどの人は本作をプレイ済みだと思いますが、もしこれを読んで興味が出てきたら、是非プレイして欲しいです。

どんな事が起きても、「まあこれも人間だわなあ」という感覚をインストールすることが、これから生きていく上で、自分を楽にしてくれる。そんなことを思いつつ、本考察を終えます。

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