音楽を聞くのが好きです。
外を3歩出れば物を失くす運命の下に私は生まれており、iPodクラシックを3台失くしてからは、もっぱらスマホのYouTubeでしか聞いていませんが、それでも移動中等いろんな場面で音楽の力に助けられています。
しかし、大好きな物ほど、その反面のダークサイドの影響も自分に及ぼすものです。
まず前提として、私の音楽に対する姿勢や捉え方、期待はかなり高いです。
音楽は聴覚で耳から感じるハーモニーを聞く娯楽ですが、私は大抵イヤホンで聞くので、外界からの音はシャットアウトされます。
そして音は振動なので、肉体や骨など全身に音が響きます。
さらに私はその上で目を閉じるので、視界は閉ざされ、音のイメージが脳内で映像を再生します。
つまり私が音楽を聞くときは、自分の全身に音が深く潜り込み、包み込まれるイメージに包まれる訳です。
その意味で、もしかしたらあらゆる娯楽の中で、一番深く入り込み、またとても深い体験を期待しているのが音楽かもしれません。
しかし、深い体験ほど、間違った穴に入ったら出てこれなくなるもの。
ここで問題になってくるのが、アーティストの人格問題です。
自分の感覚を委ね、全身を預けるに足る人格なのか?
これが私の音楽を聞くときの大問題なのです。
そもそも、私のメンタルは豆腐よりも柔らかい、とろろメンタルです。
人の悪意や、攻撃を敏感なセンサーが感じ取り、それが反応すると、心がとろろのように排水溝に流れていきます。
具体的な例を挙げます。
あるとき私は、CDショップの試聴機で、若手のバンドを聞き、感銘を受けCDを買いました。
とてもお気に入りでヘビロテで聞いていたところ、ある時本屋でそのバンドのインタビューが載っていました。
気になってパラパラとページをめくると、そのボーカルがやたらギターやベースに対して上から目線なのです。
そのボーカルが喜々として語るレコーディングの様子は、もしこれが会社であればパワハラレベルであり、それをさも自分の武勇伝のように語っていました。
それ以来、私はそのバンドを一切聞けなくなりました。
また、あるとき友人からCDを貸してもらったバンドがとてもアグレッシブで、今どきこういう破天荒なパフォーマンスをする人たちもいるんだなあ、と嬉しくなりファンになりました。
しかしそのバンドがいきなり、解散するというのです。
そしてその理由というのが
「もう、このバンドで出来ることはやりきったから」
という理由でした。
正直この理由に関しては別にいいのです。
やる自由、やらない自由は本人にあります。
問題なのは、そのバンドもやはりボーカルのワンマンであり、明らかに他のメンバーが納得していない、及び相談されてもなかっただろうことなのです。
発言からみるに、自分の気分や感覚でワンマンで引っ張っておいて、いきなり自分の気分で放り投げた感がプンプンします。
そして、こうも思いました。
「まだ全然何も成し遂げてねえーー」
例えば海外の超メジャー級バンドが20年やって解散とかなら分かるのです。
しかし、日本のインディーズ界隈で、少し名前が売れたから解散。
かつ人の気持ちを考えない・・・・
ダサいダサすぎる
それ以来、私の記憶から、そのバンドに関わることを抹消しました。
私は別に、CDが売れてるからすごいとか、ライブする場所の大・小についてを言いたいのではないのです。
路上ライブでたまたま見た学生の歌に感動することもありますし、おじいちゃんサークルのジャズバンドもめちゃくちゃ素敵だと思います。
要は人に優しくなかったり、他人の事を考えない人格が嫌いなのです。
そして私の敏感意識センサーは、こういう人格が持つ悪意や攻撃の意思をあますことなく掬い取ってしまい、そしてそのセンサーに反応したら最後、そのアーティストを体が受け付けなくなるのです。
全身を預ける音楽であればなおさらセンサーは敏感になり、その意味で音楽を聞く行為は楽しみでもあり、恐怖でもあるという二律背反の中で私は生きています。
よく
「作品と人を切り替えなよ」
と言われるのですが、こればかりは無理なのです。
どんなに切り替えようと思っても、聞いてて虫唾が走り、鳥肌の粒がプテラノドン位になっちゃうんです。
そんなわけで、私の音楽ライフは、地雷が沢山埋まってる洞窟を目を凝らしながら深く潜っていくような過酷なものなのです(自分が地雷を増やしているだけ)
ただし、常に危険を隣り合わせということではなく、私が神としてあがめている、中島みゆきさん、カネコアヤノさん、等の神様アーティストに関しては、常に私の全身に恵みの雨を降らしてくれます。
つまり危険に身を脅かされるのは新しいアーティストや、気になり始めのアーティストを聞いてる時ということです。
話は変わりますが、この人格問題に関しては実は、映画やドラマにも暗い影を落としています。
ある時ドラマを見ていると、地味だけど、とてもいい笑顔をする女優さんが目に留まります。
それ以来、なんとなく、その子がいるドラマをチェックするようになったのです。
しかしあるとき、その子が番宣の為に出ていたバラエティーの番組を見ていた時のこと。
共演した俳優さんから、その子の違った一面を暴くみたいな、ほんわかしたコーナーがあったのですが、その俳優の口から
「撮影が押してくると、とんでもない顔でスタッフを見ているけど、あれはやめたほうがいい」
という割とガチ目なアドバイスが飛び出たのです。
その瞬間、私の敏感意識センサーが反応、そしてその子のバラエティーの態度等、今まで見てきたあらゆる違和感の点が、線で繋がりました。
ああ、こいつヤバいやつだな
そう、私は完全に確信したのです。
それ以来、作品をあえて避けることはしないまでも、その女優さんが出ていても、役割を担った人形だと思うように意識を切り替えました。(作品を見れるだけ音楽よりはマシな模様)
次も女優さんの話です。
その子は、ドラマや映画に出つつも、バラエティーでも活躍しており、その時のざっくばらんな態度が、とても見ていて気持ちよく、それ以来、存在が気になっていた女優さんでした。
あるとき深夜のバラエティーで、その子の1日に密着したVTRを元に、スタジオでMCがその子の内面を掘り下げるみたいな番組に出ていた時の事です。
そのMCは片方が芸人さんで、片方が若手の女優さんだったのですが、そのMCの女優さんに対して、明らかに本人が気にしているであろうことを、その子がさらっと放り投げたのです。
そしてさらに質が悪いのが、会話中にさりげなく、悪気が無い風を装って、上手く、自分が悪く映らないように発言しているところでした。
その瞬間、私の敏感意識センサーは反応します。
女優さんの目に見えない、精神のけずりかた、いやらしさ・・・
正直、言って気分は最悪でした。
また一人、私の中で女優さんが人形になってしまいました。
さて、ここまで書いてきて私自身思うところがあります。
それは
お前が敏感すぎなだけで、思い違いもあるのでは?
ということです。
もしそれなら僥倖です。
センサーが間違っているなら、そのほうがよいのです。
その分、私は色んな縛りから自由になれるわけで、何も怯えることなくエンタメを羽ばたけるようになれるからです。
なので今までの例を1個1個丁寧に洗いなおして、じっくり、かつしっかり考えてみたところ・・・
いやこのセンサーは、やっぱり正しいな
という悲しい結論に至りました。
色んな事を恐れていて臆病な動物ほど危険に敏感なものです。
その前提からいうと、臆病に臆病を重ね、その重ねた臆病に臆病を何層も重ねた、臆病がお送りするミルフィーユのような私のセンサーは残念ながら正確無比という他はありません。
しかし、このセンサーの正確さが証明されてしまうと、今度は世の中の色んなものがどんどん恐くなってくるのです。
まず
「10人くらい並んでる、上半身しか映していないアイドルの笑顔のポスター」
これなんか、恐怖でしかありません。
間違いなく笑顔の裏で誰かが誰かの足を踏んでいるに違いないからです。
「内閣の組閣の時の、ひな祭りのように並んでる写真」
あれも恐怖です。
国土交通大臣が、外務大臣を裏でつねっているのを知らないのは首相だた一人です。
「ジョジョのスタンド」
これも恐いです。スタンドが本体の人間の髪に唾を吐きかけリンスのように唾を練り込んでいるのを、私は簡単に想像できます。
「アベンジャーズ」
これなんかは恐怖の極致でしょう。
マイティ・ソーの席に、スパイダーマンが蜘蛛の糸を、嚙み終えたガムのように引っ付かせておくことを他のメンバーは見て見ぬふりをしているのです。
そうなんです。
このセンサーにかかれば、ありとあらゆることがセンチメンタルジャーニー、いえ、とろろメンタルジャーニーになってしまうのです。
私は、悲しみのあまりカフェを出ました。
するとその時
唐突に私を貫く太陽の光。
おお、気持ちいい光だな・・・
めちゃくちゃいい日差しだな・・・・・
あれ・・・・
なんだか・・・・・
良い気持ちになってきたぞ!
そうなのです。私の意識敏感センサーは太陽の光に当たると3秒で消えてなくなるのです。
我ながら何という単純な体と意識を持っているのだろうと、毎回思うには思うのですが、その時は楽しいので深くは考えません!ええ!考えませんとも!!
そして私は
♪コワイものなんかないよね ときめく方がいいよねー♪
と乙女のポリシーを歌いながら家に帰ったのでした。(自分の躁鬱気質が不安になるこの頃)