<考察>「華氏451度」 脊髄反射的な快楽が燃やすもの

考察

「華氏451度」は、アメリカの作家であり、SF界の巨匠であるレイ・ブラッドベリさんが、1953年に書いた、本の所持や読書が禁じられたディストピア社会を描いたSF小説です。

タイトルの華氏451度は、紙が自然発火する温度を示しており、既にこの段階から、寓意や象徴を多いに含んだ物語であることが分かります。

古典SF作品でもかなり有名なので、読書をしない人でも名前を聞いたことがあるのではと思う本作。

有名であることには理由アリ! 

それは本作が、内容がとんでもないほど詰まっている真の名作だからです。

ディストピアSFとしてのストーリーラインも魅力的なのに加え、高度でシニカルな文明論や人間論、読書論も含まれており、何度読んでも新しい発見や、喜びがあるという底が深い作品なのです。

我々は否応なく、資本主義の大量消費社会の中で生きています。その意味で本作が描くディストピアは他人事ではなく、むしろ53年に書いた世界がそのまま実現しているような部分もあり、恐ろしくなります。

だからこそそんな社会で生きる我々にとって本作は、必読の書であり、一度は触れておくべき、自身の血肉になる古典だと思うのです。

そんな本作を自分なりに考察していこうと思います。

以下、物語のネタバレを含むので、嫌な人はここでストップして下さい。

「火を燃やすのは愉しかった」

冒頭の一文だけで、現代社会の本質をえぐり出す本作。

主人公のモンターグは、本を燃やす焚書の仕事をする「昇火士」という仕事をしています。

火を消すのではなく、火を昇らせる。

この翻訳の当て字そのものがとても秀逸であり、この文字だけで焚書の恐ろしさ、そして炎上を楽しむ人間が持つおぞましさが表現されています。

本作の世界では、エンタメはとことん単純化しており、かつ体感的で強烈な実感を伴うアトラクション的な物が人気を誇っています。

例でいうと、勝ち負けが明確でかつ、体感を伴う様々なスポーツ、スピード―カーでハイウェイを飛ばす行為、学校では、皆が叫び踊り狂うという青春生活を送っています。

上記の快楽は、反射的で本能的なものばかりであり、本を読むような思索的な趣味は禁じられています。

この反射的な刺激の延長線上に、本作の昇火士の焚書があります。すなわちこの世界の人々にとって、本が燃え、すさまじい炎を巻き上げることは一種のエンターテインメントショーなのです。

本作は1953年に書かれた、誇張されたディストピアを舞台にした作品のはずなのですが、現代と驚くほどに状況が似通っています。

極端な事を行い炎上を糧に再生数を稼ぐ迷惑系Youtuber。週刊誌がタレントの不倫を暴き、それを徹底的に叩くという合法リンチショー。SNSの過去の呟きを抽出して、吊るし上げる、火だるま祭り。

この全てが炎上を楽しむ、エンタメとしての炎であり、それこそが冒頭の「火を燃やすのは愉しかった」が内包する精神性です。

その意味で私たちは現在、色んな所に存在する民間昇火士のエンタメの中で生きていると言っていいかもしれません。

炎上エンタメという、脊髄的な快楽は、即座にドーパミンを得ることが出来ますし、人間の持つ破壊願望や、自身の優越感も満たしてくれるので、非常に気持ちがいいものです。

もちろんその副作用はあります。

まず過度に攻撃的になり、物事を善悪という単純なファクターで捉えようとするので、思考する力は確実に奪われていきますし、強い刺激を浴び続ければ脳細胞は破壊されていきます。

炎上という脊髄的快楽は、思考する力を確実に奪っていき、人間を一面的で底の浅い獣へと誘っていくのだと思うのです。

本作の主人公である、モンターグ。

彼の名前の文字を少し読み替えると、「モノローグ」になります。

モノローグは日本語に訳すと「独白」という意味であり、掛け合いのセリフではなく、人物が一人で自身の心情を述べるセリフの事を指します。

またモンターグに近い文字として「モンタージュ」という映画用語もあります。これは元々はフランス語で「組み立て」という意味であり、視点の違う複数のカットを一つの作品にまとめる手法を指します。

私は主人公であるモンターグの名前には、これらの二つの意味が隠喩のように込められているのではと考えています。

本作は、昇火士であるモンターグが自身の心情と向き合いながら成長していく物語であり、それはある種のモノローグ的で独白的な物語です。

そしてその成長は、モンターグが様々な人と出会い、色々な価値観に触れ、自身を新しくアップデートしていく作業であり、非常にモンタージュ的です。

自身の気持ちの変化を感じつつ、読者と共に新しい価値観を体験していくのが彼の役割だとすると、読者自身の人生もまた、モノローグとモンタージュを折り重ねて、成長していく作業とも言え、二者は存在的に重なっています。

そう考えると、モンターグという名前ほど主人公にふさわしい名前は無い様な気がします。

一方でクラリスから清浄な感性をもらい、老女からは信仰という力を教えてもらうという描写から、もしかしたら昔のモンターグは、それらの心を動かす感性を元々持っており、それを人々の助けにより思い出していっているだけなのではないか、そんなことも思います。

その意味で言えば、本作はモンターグが歪めてしまった意識を癒し、無意識に抱えていた純粋な何かを取り戻していくという小説とも言えますし、クラリスや老女は、モンターグが持っていた感性や信仰心の象徴であるとも言えるかもしれません。

モンターグの家の隣に住む、17歳の少女・クラリス。

彼女はモンターグの価値観を揺らして、最初の目覚めを促してくれる存在です。

雨の水の味や、月の美しさに喜びを感じる彼女は、モンターグに、大地や自然を慈しみ、そこから尊いものや喜びを発見する感性を与えてくれます。

クラリス本人が17歳はいかれていると表現していますが、17歳は今でいうと高校二年生。

その年ごろというのは、子供でもなく大人でもない宙ぶらりんな期間で、それなのに体だけはしっかり大人になっていくという、ある意味で難しい、精神的にとても不安定な年ごろです。

本作のクラリスの役が、清浄な感性によりモンターグを揺さぶる役割であることを考えるならば、彼女が17歳であることは、大人になりきらず迷いがある事・考える事は尊いことである、そのようなメッセージがあるのではと思います。

年を重ねれば重ねるほど、日常生活にかかるお金や税金、ローンなど世俗的な事にばかり意識が向き、自身の存在にどういう意味があるのか等という、根源的な問いからは遠くなっていきます。(むしろいい年して何考えてるのって言われるまである)

その意味で作者は、青春時代の些細な事に心が動き、迷う時間こそ、非常に貴重であると考えているのではと思うのです。

クラリスは、周囲からおかしいと思われており、精神病院に通わされています。

この描写には、狂っている現代において、正常者よりも、周囲から浮いていたりおかしいと思われている人間の方がまともな感性を持っているのでは? と言う様な問いかけの意味が入っているのではないかと思うのです

そんな彼女が死ぬことになる原因は、非常に象徴的です。

彼女は誰とも分からない人が、飛ばした車に轢かれて死んでしまうのです。

繊細な感性は、社会の合理性や速度を上げろという圧力に潰されてしまう。

私はそのような思いを、クラリスの死から感じ取りました。

モンターグの妻であるミルドレッド。

彼女は寝る時にも、両耳に巻貝という超小型ラジオをはめ常に音を浴び、目はピアノ線によって天井に固定され、常に見開いています。(もはや一種のホラー)

そして本当の家族であるモンターグには興味が無いのに、テレビモニターに映る疑似家族を部屋の壁に囲ませて、そのやり取りに夢中なのです。

そんな彼女の名前「ミルドレッド」。その文字を二つに分解してみます。

するとミドルは「中間」の意味、レッドは「赤い」という意味の単語になります。

それを繋げると「中間の赤」。本作は火を扱う物語なので、「中間の炎」と言い換えてもいいかもしれません。

文字の意味、作品中の彼女の生活から考えるに、ミルドレッドは、華氏451度という焚書世界における、世俗的で普通の価値観を持つ庶民の代表者を象徴しているように思います。

イヤホンで常に快楽音を聞き続けたり、バーチャルな家族にしか愛着を持てない本世界の有様は、誇張されていると思うかも知れませんが、現代社会でも類似的な事は沢山あります。

食事の時にスマホを見て会話が無い家族というのも沢山いるでしょうし、推しや配信者に投げ銭やお金を使っても、実際の家族には会話すらなく、誕生日すら祝わないという人も珍しくないのではと思います。

常に文明の機器に触れ、エンタメを消費していないと、自身の空白や隙間時間に耐えられないというのも、まさに現代人の特徴でしょう。(私も隙間時間があればすぐスマホを開いちゃうんだなあ)

ミルドレッドのテレビ内家族が、決まったセリフを返す「役割に過ぎない」こともまた非常にアイロニーが効いています。

自分が好きなものは、ただ自分に都合の良い繰り返しでしかなく、その狭い範囲の役割や快感だけで満足し、新しい発見みたいなものは求めない。

相手がある実際のコミュニケーションこそ未知の魅力があるものですが、未知のものは予想出来ない為、怖いし疲れるので、決まった都合の良い事ばかりを繰り返す。

これもまたネット動画のサイトで、自動的に上がってくる自分が好きそうな物しか見なくなるという現代の様相と驚くほどマッチしています。

事実ミルドレッドは、作中で体調が悪いと訴えるモンターグに対し、自分の生活や都合を最優先にして、適当に「あなた病気じゃないわよ」と言います。(普通に離婚案件)

彼女にとってモンターグ本人よりも、自分の快楽を支えてくれるお金や物資の方が大事であり、モンターグが仕事を行かない事で、それらの物資が止まってしまうことの方が問題なのです。

バーチャルで架空の、自分にとって都合の良いものばかりを見て、目の前にある家族を顧みない。

現代社会の家族の問題点を抽出し、濃度を煮詰めたような描写により、ミルドレッドは様々なことを読者に気づかせてくれます。

「男らしくふるまいましょう、リドリー主教。きょうこの日、神のみ恵みによってこの英国に聖なるロウソクを灯すのです。二度と火の消えることのないロウソクを」

この言葉は16世紀のイギリスにおいて、英国国教会の主教であるヒュー・ラティマーが、カトリックを信奉している女王メアリー一世により、火あぶりに処せられる時に、一緒に処刑されたリドリー主教に語った言葉です。

そのセリフを呟き、焚書に抵抗し、そのまま身を焼かれる老女。

ここには「信仰」という、ある種狂信的ともいえる激烈な炎が描かれています。

この炎は、世間が浴びているエンタメや自己快楽の炎とは違い、そこにあるのは快楽や自己保身を超えた所にある、信念の純粋な炎です。

それの是非は、信仰の内容、世俗とのバランスの取り具合など、個人の感性や資質に左右されると思います。

しかし自身が燃やしている昇火士の炎とは違う、ある種の尊さをまとう老女と炎の姿を見たことは、モンターグの感性に確実に何かを与えたのだと思います。

自身の保身を超え、普遍的な価値にまで手を伸ばそうとしたものの放つ炎は、きっと美しいものだったに違いない、私個人はそんな風に思います。

本作の社会は絵に描いたようなディストピアであり、都市に生きる人間の荒廃が徹底的に描かれます。

エンタメは単純化し、中身は大味になり、古典も圧縮され、最終的にダイジェストとしてまとめられる。

そして多くの人が、勝ち負けが分かりやすく、肉体的で反射的なスポーツに熱狂し、休日は高速でスピードカーを飛ばし、学校では殴り叫び、踊り狂う。

ここにあるのは、脊髄的で反射的な快楽ばかりを求めた文明の成れの果ての姿です。

その快楽の中心軸は合理化・高速化・刺激の強化という三つの要素であり、それらが華氏451度の文明を作っています。

それに加えて、何かを考える隙間の時間を作ることを禁止し、情報や快楽を詰め込ませ、何かを常に浴びせている事も特徴です。

常に反射的な快楽漬けにして、自分で思考する能力を奪うこと。

これはまさに愚民化政策です。快楽だけ適度に与えとけば、裏で何をしても簡単に支配出来る国民は、支配者にとって実に都合が良いものです。

もちろん情報のインプットは重要です。しかし一方で、その情報を寝かしたり咀嚼する、散歩や縁側でぼんやりする時間は絶対に必要なのです。

そういう思考を促す時間の積み重ねが、自分の思考や自我を育ててくのだと思います。

華氏451度の世界ほど極端ではないにしても、現代社会も同じような状態になりつつあります。

電車の中ではスマホを見ていない人を探す方が珍しいですし、基本的にショッピングモールでは常に何かしらの音楽が流れ、お風呂やトイレの中ですらスマホを手放せない人も多いそうです。

本作で、広告の音声の連呼で邪魔され、聖書を読めない描写がありますが、これもまた実に皮肉な描写です。

信仰というのは思考を重ね、自身の精神で育てていくものだ私は思いますが、その信仰ですら物を売る為の広告に毒されている。

華氏451度の様な脊髄反射的な消費社会と同じく、現代社会もまた大量消費が社会や経済のベースです。

YouTubeを見ていれば自然に広告が流れ、街中の看板、ほとんどのウェブサイトにも広告が差し込まれます。まさに広告!広告!広告!であり、その結果としての消費!消費!消費!です。(ベイティーオマージュ定期)

強い刺激を反射的に浴び、思考を放棄する事には、愚民化することに加えて、更なる副作用があります。それは感情の制御が困難になり、怒りっぽくなることです。

本作の戦争は爆弾により一瞬で蹴りがつきますが、その瞬間的な爆発は、脊髄反射的な怒りですぐにカッと血が昇る人間の感情に重なります。

本作における戦争の在りかたは、脊髄反射的快楽の延長線上にあるものなのだと思います。

本作において、序盤から戦闘機が飛び、戦争の予兆があるにも関わらず、それを誰も気にしないのもまた非常に皮肉な描写です。

自分の日常に関わる事以外は他人事で興味がない。

これも現代人の特徴ですが、そこにあるのは利己的で自身の利益にのみ汲々とする価値観の貧弱さ、その奥にあるのが、他の人の幸せや苦しみを思考することが出来ない想像力の欠如です。

「崩れ落ちろ、石ころ一つ残さないぞ、消えてなくなれ、死ね」

これは終盤モンターグが、戦争の為に都市に飛んでいくジェット機を眺めた時に、そのジェット機の気持ちが分かると、代弁した言葉です。

脊髄的な快楽ばかり浴びていると、神経は病み狂暴になり、結果、燃やせ、倒せという単純な、瞬間湯沸かし器のような人間になり、いずれ人類ごと焼き尽くす事が、この言葉に現れています。

その黒い澱が溜まった時には、ミルドレッドがされたように、コブラのような機械を使い、まるで製品のメンテナンスをするように毒を吸い込むわけです。

人間がただの製品や商品まで堕している事、そして欲望の禍々しさを蛇として表現する事など、実に見事な描写だと思います。

現代の人が、デトックス目的に、自然の中にキャンプに行く事と、コブラの機械がやっている事は、実は本質的には変わらないのかもしれません。

本作において、モンターグを惑わせ、狂った現実の中に押しとどめようとする、メフィストフェレスのような役割をするのがベイティーです。

昇火士の隊長である彼は、焚書世界になった経緯を熟知しています。

テクノロジーが隙間の時間を駆逐し、少数派への配慮や、知識人への妬みや劣等感により、人々が自ら本を燃やし始めた経緯を、妖しく語っていくのです。

少数派に配慮し、表現は無難なものばかりになり、知的でメッセージ性のあるコンテンツは理解が出来ない人の劣等感を刺激するので敬遠される。

現在のエンタメは一時期に比べ、極度な簡易化傾向、見る人を馬鹿にしたような、全てをセリフで説明するようなドラマは体感として若干減ったかなと思います。

しかし華氏451度の傾向へと、現代のエンタメが年々近づいていっているのは、間違いない様な気がしています。

昇火士は、裁判官でもありエンターテイナーであると語るベイティーですが、そこには何かしら、過度に盛り立てる様な、やけっぱち感があり、言葉の奥に、底の知れない虚無感があるように私は思います。

ベイティーの発言からは、哲学や文学の深い見識が見受けられ、恐らく彼はかつてなかなかの読書家だったのでしょう。

しかし、ある時に読書の無力さや社会の快楽至上主義に絶望し、開き直るかのように狂った現代でピエロの様に踊ることを選択したのではないか、そのような事を彼の様相から感じるのです。

モンターグが「ベイティは死にたがっていた」と語りますが、虚無の中で刺激的なショーに身を費やし、ひたすらそれを繰り返す人生に、ベイティは終止符を打ちたかったのだと思います。

現代社会は、それぞれが自身の利益に汲々とし、上辺だけを倫理やきれいごとでデコレーションしている、腐ったケーキの様な世の中です。

若い人の中には繁華街にしか居場所を見つけられず、身をどんどん擦り減らし、大人につけこまれ、最終的に自らの命を落としたりする子もいます。

その奥底にあるのは深い絶望と虚無だと思いますが、ベイティーもそれと似たような虚無を抱えており、モンターグに焼かれることを心の奥底で望んでいたのではないかと思うのです。

私はベイティーというキャラクターは、虚無と絶望を体現しているのと同時に、モンターグの心の一側面を現わしているようにも思います。

「ぼくらは一度だって、正しい理由でものを燃やしたことはなかった」

「ベイティー、あんたはもう問題じゃなくなった」

作中の二つの言葉から、私はベイティーを燃やす事イコール、モンターグの中にある退廃的な快楽への依存心や虚無感を燃やすことなのではないかと思うのです。

その意味でモンターグはベイティを燃やすことで、退廃的な都市的思想を完全に捨て去り、新しい人生へと完全に舵を切ったのではないかと思います。

ここで実はコインの裏表のようであり、似たような役割である、フェーバーについても簡単に書きます。

元大学教授であるフェーバーは、かつて理想を抱きつつも、社会の変化を眺めていた、行動せず諦めたインテリであり、日本でいうと学生運動に負け、高度成長社会を受け、バブルを受け入れた団塊世代に重なります。

本作においてはモンターグの覚醒が、フェーバーの目覚めを促しており、二者の存在は重なり、心的にリンクしています。

本作には、様々な種類の炎が登場します。

モンターグが従事する昇火士の炎は、本という思考を燃やす「破壊」や、エンタメとしての「炎上」としての炎ですし、老女が自らの身を捧げた炎は「信仰」という狂信的で激烈な炎を現わしています。

また本作では、地球上での生物の生活について、「太陽は“時間“を燃やしている」と表現しています。

我々の生活は、時間を経るごとに細胞や寿命を燃やす事であり、本作では日常生活そのものも、「生命」の炎を表現していると考えることが出来ます。

終盤で都市を焼くのは、「戦争」という文明と理性の崩落の炎ですし、逆に放浪者の老人たちとベーコンを焼く炎は、人間の食や文化を再生させる「文明」としての炎だと思います。

本作の炎はその意味や象徴の幅も広く、多様です。

物事を一面的に単純に判断せず、色々な性質や側面を考えること、それこそが本作の一つのメッセージであり、思考を焼却するだけの快楽人形にならない方法でもあります。

本作は文明論であると同時に、読書論的な側面もあります。

フェーバーがモンターグに「きみに必要なのは本ではない。かつて本の中にあったものだ」と言いますが、これは本であれば何でもいいわけではなく、価値が詰まっている物とそうでない物があるという事を述べているのだと思うのです。

ベイティーもまた本に対し、「本はなにもいってないぞ!」と実体験を含めた意見を述べています。

これは不毛な左右対立のイデオロギー本や、時流によって主張がコロコロ変わるインスタント哲学本の様な物を指して、そこからは拾える価値は無いと言っているのだと私は解釈してます。

上記の本において、本当に思想上の熱意があって対立しているなら、まだいいですが、ほとんどの本はただ特定の人に売る、お金の為にやってるものばかりの印象があります。

そこに書いてあるのは特定の人が喜ぶだけのいつもの事で、そこに新しい発見や喜びはありません。

その意味で、本当の意味で価値のある本というのは、商売や打算で書いている物でなく、本当に何かを伝えたいという信念や魂が宿っているものだと思います。

またメディアの媒体比較として、テレビやラジオが一方通行であるのに対し、本はいつでも自分のペースで読むことが出来ることを、本は分別をもって叩きのめすことができると表現しています。

本は、自身で考え、作者と脳内で議論を交わせる事が出来る、かなり自由度の高い媒体なのです。

この価値観は、本に対するハードルを下げることが出来ます。

また、「自由な感性で自分勝手に本は読んでいいのだ」というスタンスの軟化に繋がり、その間口を広げ、より楽しくアプローチ出来るようになる素晴らしい着眼点だと思います。

一方で、自由に読めるということは、自分で世界観を構築していかなくてはいけないということでもあります。

そこには「問う力」「思考する力」が必要で、れは脊髄反射的な快楽とは相性が悪い事も、作中の言葉で婉曲的に表現されているように思います。

自分で考えるという手間を挟む必要がある読書は、脊髄反射的な快楽に負け、華氏451度の世界では、人々が自発的に本を読むのを辞めてしまいました。

人々が受け手として、消費するだけのエンタメばかりを欲していくと、読書という文化は、現代でも弱体化し、いずれ消えてしまうのかもしれません。

また本作は、作家の為の作品論という側面もあります。

「細部を語れ。生きいきとした細部を」

「気楽な連中は、毛穴もなくつるんとした、無表情の、蠟でつくった月のような顔しか見たがらない」

これは風景の描写や人物を細かく、かつその本質を切り取るような表現にこそ、魂や神は宿るという、ブラッドベリさんの創作論であり作品論だと思います。

現代社会では年を追うごとに、極力難しい言葉や地の分を排除し、セリフばかりにしたり、人物の描写も典型的な美少女のキャラのような、分かりやすさやテンプレに振り切った作品も増えています。

それはある種の記号化や簡略化であり、必要な技術ではあるのでしょうが、それが行き過ぎると、読み手も書き手も思考力が無くなり、いずれ本は映像に負け、最後は反射的な快楽に吸収されてしまうように思います。

また「花が花を養分として生きようとする時代」という表現からは、自分が経験した厳しい体験や、そこから得たものから作品を生み出すのではなく、部屋の中で見たエンタメを元にしてしか作品を作れない、もしくは作らない事に対する厳しい視線も感じます。

本作における「読書」や「本」に対する目線は、残酷であり非常に厳しいものです。

しかしそれは作者が真摯に現実を見つめ、かつこのような未来を突きつける事で、読者に対し危機感を喚起し、少しでも何かを考えて欲しいという、切実な気持ちが詰まっているからだと思います。

読者に飴だけを提示したり、内心馬鹿にしていような作品とは違い、本気でむきだしのまま読者に向かい合っている覚悟に、胸が打たれます。

都市から逃げ出して来たモンターグを迎え入れてくれる五人の老人。

彼らは歴史的な古典を、一人一冊ずつ記憶し、口伝により後世に残そうとしています。

作者であるブラッドベリさんはアメリカ出身で、そのアメリカの国旗は星条旗と呼ばれており、星がモチーフ。そしてその国旗の星は五つの星で構成される五芒星です。

私はこの五人の老人の存在には、五芒星の象徴が込められており、アメリカの精神を継承していく者という意味が込められているのではと考えています。

一冊の本を口伝で伝えていくという行為は、サブスクで見た映画の本数を誇る様な、いわゆるエンタメの消費活動とは違い、一冊を大事にし、その果てに自分自身の思考とも向き合う、深的な行為のように思います。

しかし、もし現代社会の全員がエンタメとそういう向き合い方をすると、大量消費の国では、人々が物を買わなくなります。これは本質的に資本主義に対する反逆行為です。

大量消費社会においては、エコであったり、一つの物事に深く向き合うことは、本音のところでは歓迎されてないのです。

老人たちが言及する、政府に意識されないような過ごし方は、行政を刺激しないで目立たないように深い思索を実現する処世術であり、「面従腹背で上手くやってこうぜ」ということだと思います。

思索的に生きることは、個人の意識次第で、どのような社会環境でも実現出来る、そう言うメッセージもこの描写から感じます。

また彼らが放浪者という事も、色々な象徴を含んでいる様に思います。

放浪者は都市に定住する人とは違い、住む場所が決まっておらず、その日その日違う場所に移動し、違う寝床で眠ります。

これを思想に言い換えるなら

「何かのイデオロギーや思想に依存するのではなく、常に新しい思想を渡り歩きアップデートしていく性質」

そのように言えるのではと思います。

その放浪者たちの生活を現わした言葉も非常に象徴的です。

「古い線路の上を歩いて、夜は山のなかで寝て」

「線路」という言葉には、歩き続ける、もしくは探し続けるという意味が含まれており、また「山の中」は、自然の中を現わし、大地と繋がっている意識を忘れるなというメッセージが込められてるように思います。

「大地や自然を感じつつ、考え、歩き探し続けろ」

そういう作者の思いがこの文の本質だと思うのです。

アメリカはゴールドラッシュなどに象徴されるように、開拓者や挑戦者を尊ぶ国柄です。その意味でこの五人の老人の生き方というのは、作者が提示する一つの真摯な生き方ではと考えます。

また「われわれは本のほこりよけのカバーにすぎない」という言葉は、自分の存在は次の世代へ思いを繋ぐ一部分に過ぎないのだという思いが見えます。

一方で、価値があると納得していれば、もう一度最初から繰り返せるという言葉には、本や作品が持つ力に対する強い信頼も見えます。

都市や消費社会と距離を持ちつつ、自分自身は思考を続け、大事なものを受け取り繋げていく。

この五人の老人には、現代の人間や作家に対し、作者が提示する生き方論が内包されており、自分は過去の作家が繋いだ魂の流れの中にいるという作者の矜持が見える様な気がするのです。

一方で、作中で老人たちは「聞く耳を持たぬ相手に聞かせることはできない」と言ったり、彼らが受動的で、悲観的なイメージである印象は拭えません。

そこには現代の多くの人が自ら考え歩き始めることは無いだろうという悲観的な認識が見えます。

そもそも老人たちが都市と距離を取っている事は、都市の多くの人が退廃側に身を置き続けることを前提にしており、全員を救おうという姿勢が本作から見えないのも事実です。

この五人が老人であることも、若い世代への失望や、自分たちの世代のしてきた事の無力感が見え、それこそが執筆時の作者の率直な心境だったように思います。

それでも、本作を読んだわずかな人に思いが伝わり、少しでも都市や人間社会にプラスになったならいい、そういう思いが作者の本作の執筆理由ではないかと思うのです。

本作が全員を救う志向性が薄いことに不満がある人もいるかもしれませんが、メッセージの普遍性は読めば全員に伝わると思うし、現状を美化せずに、自分の感覚に嘘をつかない真摯さがあるからこそ、本作は類まれなる傑作なのだと思います。

確かに五人の老人たちは孤独に見えますが、モンターグが合流しますし、他の場所にも放浪者の仲間は大勢いる描写もあります。

各自が思考や想像力を育てていくムーブメントが広がっていく未来や希望も、本作には内包されているのです。

老人たちの言葉の中には、モンターグのような目覚めた人だけではなく、全ての人に刺さるような啓示的な言葉もあります。

「われわれは誰でも、物事を写真に撮ったように正確に記憶しているものなんだ。ところが、じっさいにはそこにあるものが出てこようとするのを邪魔する方法を身につけることに膨大な時間を費やしている」

この言葉は余計な情報に毒されている頭を振り払い、意識的にクリーンにすれば、どんな人でも「思考」という力を再生出来るという作者の思いだと思います。

老人たちの生き方には、作者が考える人間や作家の生き方理想、真摯で残酷な現状分析、わずかな可能性でも確かにある希望。

そのようなメッセージが混ざり合って含まれているように思います。

モンターグは最終的に都市を離れ、老人たちと共に放浪する身を選びます。

私は本作における真の目的地は、集落や街ではなく、彼らが歩くことになる線路そのものだと考えています。

本作で都市の人々は、脊髄反射的な快楽に身をやつし続けた結果、戦争という炎に焼かれることになりました。

それは、便利で消費重視の生活に沈殿し、いつの間にかそこから一歩も動けなくなっていたからでもあり、都市には人を快楽人形へと変え、そこにとどまらせる性質があるような気がします。

一方で、昼は線路を歩き、夜は山の中で眠るという放浪者の生活は、自然と繋がる感性を持ち、止まらずに考え、歩き続けるという生活です。

その意味で本作の真の目的地は、歩き続ける事を象徴する「線路」であり、人生を豊かにするには、とどまらずに考え歩き続けることが大事である、そのようなメッセージが込められているように思うのです。

「おれたちは川をたどるんだ。古い線路を見た。いや、こっちをたどるか。さもなければハイウェイを歩いてもいい。これからは、あれこれ自分のなかに取りこむ時間もできるだろう」

これは放浪者になったモンターグの、今後の方向性の心証ですが、川もハイウェイもとどまらないで、流れ続けるものという象徴が込められています。

様々な経験を経てモンターグは、その場限りの快楽を燃焼し何も残らない都市の生活から、歩きながら吸収し蓄積する生活へ、完全に切り替えたのだと思います。

モンターグがその旅路の中で、世界の何かを掴み取れるかは分かりませんが、何かを求め歩き続ける、その思いこそが重要であり、それが無いと人間はただ燃焼し、塵の様に人生を終えてしまうのではないか、そんなことを思います。

「太陽は“時間“を燃やしている」

その言葉を読んだ時、私ははっとしました。

人間は生きているだけでエネルギーを燃やしており、いつかは体の細胞分裂は限界に達し、記憶も消え、燃え尽きてしまう。

生物はそれでいいんだ、そう言う人もいるかもしれません。

しかし高度な知性を獲得し、理性という平衡感覚を持った人間は、いやがおうにも地球環境へ一番影響を与える存在です。

環境の状態を左右し破壊出来るほどの文明を持つ以上、自分の快楽だけを脊髄的に追い求める人形であることは許されないし、それをし続けると人間の死滅だけでなく、地球そのものを燃やし尽くすことになるのではと思います。

そもそも、人類の文明が発展してきたのは、文字を発明し、それまでの歴史を記録・保管し、受け継いでいけるようになったことが大きいです。

思いや経験を保管し、受け継いでいくことは、ここまでの文明を地球に築いた、人間という種の根源的な責任のような気がします。

本作で、おじいちゃんの存在ではなく、おじいちゃんがしてくれた事に泣いているのだと老人が語る描写があります。

ここには、人間はどう生き、何を残したかが重要である、そのようなメッセージが込められているように思います。

それは別に、何か作品を作れとか本を書けとかそういう事だけではありません。本作のおじいちゃんがしてくれた事は、あくまで日常での些細なことです。

大事なのは、流れ作業で機械的にタスクをこなすのではなく、伝えたい思いや愛がある行動を積み重ねていく事なのです。

不思議なもので、しっかり愛や思いを受け取った人は、その次の世代にも、その愛や思いを伝えていくことになります。

大枠で言えば、その延長線上に今の私たちはいるのであり、私たちは愛の記憶と保管を基礎に、生活を送っているのだと思います。

しかし文明は進化すればするほど合理化し、高速化し、快楽はより強く脊髄反射的になりますし、テクノロジーは進化すればするほど、個人で完結するようになり利己的になります。

さらに強烈な刺激を浴び続けると、脳は飢餓状態になり、次々に強烈な刺激を求め、脳細胞を燃やし、思考能力を奪い、ただ自分の気持ちいいことだけを考える快楽人形に人を変えてしまいます。

私は、燃焼的で反射的な快楽は、記憶や保管と真逆の性質だと思います。

華氏451度の都市が、戦争で砂上の楼閣の様に一瞬で消え去ったのは、燃焼的な快楽を追求するだけの文明は脆く、本質的に残る強度のあるものはない、その様な事を映像的に現わした表現だと思います。

本作の第2部のタイトルの「ふるいと砂」も、本作の文明がふるいにかけられたら落ちてしまうような脆弱なものであることを現わしています。

戦争で都市が焼かれ崩壊する際に、一瞬空中に都市が逆さまに映る描写は、砂時計を傾けたら、砂がすぐに下に落ち、何も無くなってしまう様な、儚さや虚無感を見事に表現しています。

愛や思いの蓄積がない文明は、失われるのも一瞬であり、何も残らないのです。

私自身はこのブログをやっているくらいですし、本を読むのが好きですが、それを無理して人に進めようとは思いません。

確かに本は何かを考え、問い、自己を構築するのに一番向いている媒体だと思いますが、大事なのは映画だろうがゲームだろうが、自分がそこから何を受け取り、考えるかということです。

一方で、疲れている時に、何も考えないで見ることが出来て、自分を気持ちよくしてくれるエンタメも必要ですし、絶対に無くてはならないものだとも思います。

しかし、エンタメがそればかりになってしまうのは、やっぱり問題です。

分からない・難しいことは敬遠し、エンタメを消費するだけの消費者として生きる人ばかりになってしまうと、華氏451度の様な脊髄反射的な快楽社会になり、利己的な欲望の果てに、自ら社会を焼き尽くすことになると思うのです。

個人の体感として、現代社会が徐々に華氏451度の世界へ近づいていっているという思いは拭えないですし、年々強くなっています。

だからこそ私はこの本を読んで良かったし、考察の為に向き合う事は必然だったように思います。

思考し、問いを続け、線路を歩くように世界を広げていく事、またその思いや姿勢を示し、それを後世に残していく事の尊さを本作から学びました。

自分もその思いを繋ぐリレーの輪に加わり、これからも線路の上を歩き続けよう、その様な気持ちにさせてくれた本作に感謝し、本考察を終えます。

何だかよくわからないモノを目指し、ブログやってます
本の書評や考察・日々感じたこと・ショートストーリーを書いてるので、良かったら見て下さい♪

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