<書評>「風の歌を聴け」 一つの夏の終わり、そして、これからの宣言

書評

「風の歌を聴け」は、世界的な小説家・村上春樹さんの短編小説であり、デビュー作です。

私が本作を初めて読んだのは遠い昔の大学時代。

周りの人も良いって言ってるし、村上春樹行っとくか。くらいの軽いノリで本作を購入。

その頃の私はミステリー小説に食傷気味の頃で、どちらかと言えばSFや冒険小説など、壮大な物語に飢えている時期でした。

そんな感じだったので、本作を読んだ第一印象は、「あっ、これは詩だな」というもの。あくまで散文という形式は取っていますが、これは明らかに村上さんの心象風景の発露だ、そんなことを思いました。

その意味で言うと、本作は面白かったのですが、根が物語体質なので、本格的に村上春樹さんに衝撃を受けたのは、数年後に「海辺のカフカ」を読んだ時でした。

以降、「ねじまき鳥クロニクル」や「1Q84」など、大体の村上作品を読み、本サイトでは一番考察を上げている作家さんなのですが、どこかで初期の二作は読みなおそうと思いつつ、時は過ぎ、ようやく今回再読を完了しました。

それでは以下、あらすじです。

▼あらすじ
1970年夏。

故郷の海辺の街に帰省した「僕」は、友人の「鼠」となじみのバーで、ビールを飲みながら過ごす。

デレク・ハートフィールドという自殺した作家。かつて僕が寝た三人目の女の子。酒の介抱で親しくなった指が4本しか無い女の子。ラジオ番組のディスク・ジョッキー。

その年の夏は、過去の記憶とともに、ほろ苦く、あっという間に風のように過ぎ去っていく。

本作を再読して感じたのは、初回で読んだ時の印象よりは、物語性があるなという事。

鼠との一夏の交流。指が4本しか無い女の子との出会いと別れ、これらが軸として機能しており、読了後、振り返ると、一夏の回想譚がくっきり浮かび上がってきます。

とはいえやはり本作の本質は、作者の心象風景と思想だと思います。

主人公である「僕」は神戸出身の村上さんの経歴と重なります。奥さんとバーをやっていた所は、ジェイズ・バーの描写。そしてアメリカ文学の強い影響を感じさせる雰囲気からして、これはまさに村上さん自身の精神世界。

その意味で本作と意外に近い作品として思いつくのは「新世紀エヴァンゲリオン」です。

私はあの作品は、庵野監督の内的世界の発露だと捉えています。とはいえエヴァンゲリオンは、「母」「女」「自意識のねじれ」を、結構露骨に表現した、田山花袋の「蒲団」みたいな、ザ・日本的な自然主義作品だと思うのですが、本作はそれとは別物。

全編を通して退廃的ではあるものの、デビュー作という事もあってか、これまでの作者の読書や文学的蓄積。哲学や思想が、様々な描写に滲み出ていて、方向性があらゆる方向に向いており、救いの萌芽もある。

今度は漫画の話で恐縮ですが、有名な少年漫画家である富樫義博さんの作品で「レベルE」という作品があります。

これは大人気だった「幽☆遊☆白書」を作者本人の希望で終わらせ、その間に書いた、ある種、精神の闇と本人の性向をそのまま叩きつけたような作品なのですが(怪作だし傑作)

レベルEは、その後に書く「HUNTER×HUNTER」(現世で一番面白い漫画)の、元ネタになるような描写の宝庫だったりもしました。

本作「風の歌を聴け」のあらゆるシーンにも、ねじまき鳥やその後の短編の萌芽となる表現が多々あり、村上さんのファンからすると、とても興味深く、楽しく読むことが出来るように思います。

「レベルE」は連載時にたまっていた澱の発露、本作は作者が生きてきた今までの人生の体感の集大成を詩のように原液のまま出している感じがあり、濃縮したエネルギーを持つ作品の凄みは共通しています。

また本作の魅力は、ザ・村上春樹と言える文体とセリフ回しです。

私は村上春樹ファンの中には、「文体派」「物語派」「短編派」「長編派」など、様々があると思ってます。(私は物語派の長編派)

その意味で本作は、物語としての時系列や整合性が曖昧な分、文体や言い回しのエッセンスが全力で詰め込まれているので、文体がドはまりする人には、アンニュイなドーパミンの波の中に包まれるような、唯一無二の体験が待っていると思います。

本作には、指が4本しかない女の子を中心にして、様々な女性の描写があります。

基本的に誰にも名前はなく、どこか浮遊している様な感じで、存在感は希薄。

これは村上さんの作品に共通している事ですが、彼の描く女性は、何らかの巫女・何かを下ろす・表現する、媒介の様な性質をまとっているように思います。

作者は女性を通し、自己を・社会を・その哀しみを、寂莫を表出し、表現している。本作は特にその感覚を強く感じました。

次に本作の重要な、ある種の核である、架空の作家、デレク・ハートフィールドについて考えます。

これは作者がずっと親しんできたアーヴィングやフィッツジェラルドなどの、アメリカの小説家の集合体に、自身の寂莫・暗闇を混ぜ合わせた、一つの像だと思います。

何かのインタビューで、自身の青春期の娯楽は、アメリカの本を読むしか方法が無かったと、村上さんは語っていましたが、50年代や60年代はアメリカという夢の時代で、その空気は日本にも伝染していました。

しかしその夢は、ベトナム戦争の泥沼化と敗北により終焉。夢の終わりの退廃の季節がやってきます。本作が書かれた時期や舞台はまさにその時期であり、本作は、その夢の終わりと、夏の終わりを重ね合わせた作品でもあるのだと思います。

それらを象徴するのが、デレク・ハートフィールドであり、本作の全体を包む退廃的な雰囲気なのでしょう。

上記で、女性たちの存在感が希薄と述べましたが、実の所、本作は主人公の僕、というより登場人物のほとんどが存在感が希薄で、浮遊している様な、風の中で流されているだけの楼閣の様な感じがあり、それらも時代の空気感を表しているように思います。

もちろんアメリカの流れに連動するように展開した、日本の学生運動の敗北も、本作には影響していると思いますが、本作における作者の主軸は、日本というより、アメリカの、というより社会全体に対しての退廃感の方が強いと私は感じました。

とはいえ本作で描かれているのは寂莫さだけでなく、ねじまき鳥や海辺のカフカで描かれる、「救い」という種も明確に蒔かれています。

本作の劇中でハートフィールドの「火星の井戸」という作品を、一部抜粋したような箇所があります。

その物語の中で「風」が主人公の青年に、我々は宇宙の創生から死までの時の間を彷徨っている風なのだとささやきかけるシーン。

そして本作の終盤部、ラジオのジョッキーが、脊椎の神経の病気で起き上がる事も出来ない女の子のリスナーに語りかける「僕は・君たちが・好きだ。」の言葉。

私はこれらの描写から、本作のタイトルの「風の歌を聴け」の意味を、宇宙空間を風のように駆け抜けるだけに過ぎない人間の、取るに足らない生活や哀しみ、苦しみに耳を澄ませ、寄り添えというメッセージ。

もっと言うなら、自分がどういう人の、どういう哀しみに寄り添っていくかという、作家の宣言のようにも聞こえました。

本作の全体は確かに退廃感が覆っていますし、想像力への希望という読者へのプレゼントが、明確に現れてくるのは、ねじまき鳥以降だとも思います。

とはいえ本作は全然閉じている作品ではなく、どうしようもないぽっかりと空いた哀しみや、退廃を抱える人に対し、作者本人の心情を描く事で、共感を揺さぶり、救いや慰めを実現している作品なのだと感じました。

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