私はブレワイをプレイするまでゲームにおけるオープンワールドが苦手であった。
その理由は色々ありそうではあるものの、根源を辿ると一つの感情に行きつく。
それは
俺の生きている人生そのものがオープンワールドじゃい!
というものである。
そうなのだ。
私たちは地球というオープンワールドに生きているのである。
確かに私たちは、れっきとした哺乳類だし、定住型の消費生活を送っている、しがない資本主義ピープルではある←哺乳類のとこいらん
しかしそれは自分自身が生活という枠や壁を設けているだけであり、その気になれば四国だろうが、パリだろうが、今すぐどこへでも行ける←美味しいうどんを食べながら美術館巡りしたい
もちろん、遠くに行くにはお金が必要だし、それが無いならかなりの時間が必要にはなる。
しかしお金は無いなら貯めればいいし、時間がないなら仕事をやめればいいのだ。我々に行けない場所は無い←やだかっこいい
そして例え目的地についたとしても、その向こうには景色が広がり、世界は奥へと続いている。
そう人生はまごうことなきオープンワールドなのだ。
さて、そうなると一つの疑問が湧いてくる。
ならゲームまでオープンワールドである意味とは?
という問いである。
むしろ漫画にしてもアニメにしても世界観を限定し体験を濃密にするから面白いのであり、限定こそが現実で出来ない体験を担保するのではないかとすら思えてしまう始末。
さて、それと共にゲームのグラフィックについても言いたい事がある。
「フォトリアルでまるで現実のような映像体験」という、よくあるゲームの謳い文句・・・
俺の生きている世界の方がフォトリアル、むしろリアルなんだが
そう我々日本人は特に国土の約7割は森という、緑の恩寵の国に生まれている。
私は自転車で九州を一周したことがあるが、まじで日本において都市部なんて本当にわずかであり、ほんのちょっと行けばすぐに森なのだ。
つまり葉が重なり、かさかさいうハーモニーも、リアルな水面の揺らぎも、ザラザラしたコンクリートの道路も、我々にとっては隣人のようなものであり、ご近所さんまである。
そうなってくるとゲームまでリアルなのは明らかにお腹一杯であり、むしろ良い感じにデフォルメされた現実では見る事の出来ないファンタジー世界や、特色のあるタッチで描かれた世界の方が、冒険していて楽しいのではないのだろうか。
つまりは現実には現実の良さやバランスがあり、ゲームにはゲームの良い形やバランスがある、そう言う事なのだと思う。
しかし一方で私は考えてしまう。
ある会社が地球レベルの広さのリアルなオープンワールドゲームを作り、そのゲームの中の登場人物はAIで自律的に動く。
そのAIがそのゲーム内でオープンワールドのゲームを作り、さらにそのゲーム内でオープンワールドを作り、そのゲーム内でさらにオープンワールドを作る。
もしその連鎖が螺旋のように続いているならば、今の現実そのものがオープンワールドのゲームの可能性も否定出来ないのだ。
そう思うとオープンワールドのゲームというのは、我々に対し何かしらの啓示やメッセージを現している可能性すらある。
そのメッセージが希望なのか、それともデーモニッシュなものなのか、我々は今世紀中に、じっくりと腰を据えて向き合っていかなくてはならないだろう・・・